イスマトゥッディーン・アーミナ
イスマトゥッディーン・アーミナ・ビント・ウヌル[1][2](生年不詳 - 1186年1月27日[2][3])は、ブーリー朝からアイユーブ朝時代の女性。ブーリー朝の宿将ムイーヌッディーン・ウヌルの娘[2]。反十字軍の英雄であるザンギー朝のヌールッディーン・マフムード及びアイユーブ朝のサラーフッディーン・ユースフに相次いで嫁いだ[2]。 生涯ブーリー朝のムイーヌッディーン・ウヌルの娘として生まれる。生年は不詳。若いころのことは知られていない。 ヌールッディーンとの結婚1146年、ザンギー朝のイマードゥッディーン・ザンギーの死により、それまで対立してきたダマスカスのブーリー朝とアレッポのザンギー朝の間に和解の機運が生まれた。ザンギーの跡を継ぎ、アレッポを継承したザンギーの子ヌールッディーンは父の方針を転換し、ブーリー朝に歩み寄る。このことにより、ブーリー朝のウヌルとヌールッディーンの間で婚姻同盟が結ばれる運びとなる[4]。イスマトゥッディーンは1147年にヌールッディーンに嫁ぐこととなった。 サラーフッディーンとの結婚ヌールッディーンの死後、サラーフッディーンがエジプトで勢力を固めシリアへ進出してきた。イスマトゥッディーンはサラーフッディーンが周辺の情勢を落ち着かせた後、彼と結婚することとなる。この時、イスマトゥッディーンは少なくとも39歳に達していた。この結婚は多分に形式的なものであり、新夫サラーフッディーンは彼女と二夜だけともにするとあわただしく出立していった[7]。 死後、彼女は自身が建築を命じたダマスカスの廟に埋葬された[3]。 業績・評価等イスマトゥッディーンは公共事業に熱心で、ハーンカーやハナフィー派のマドラサを建築している[3]。 脚注参考文献
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