高い学識を持ちながらも学術的な役職に就くことを避け、一般向けの本を書くことが多かった。1910年代から1966年に亡くなるまで、中国や日本の文学作品の翻訳を続けた。1918年の"A Hundred and Seventy Chinese Poems"(漢詩百七十首)、1919年の"Japanese Poetry: The Uta"(日本の詩「歌」)のような詩の翻訳や、1925年から26年にかけての『源氏物語』の翻訳"The Tale of Genji"、1942年の『西遊記』の翻訳"Monkey: A Folk-Tale of China"などの小説の翻訳で知られる。また、中国哲学の紹介や翻訳、文学者の伝記の執筆、アジアと西洋の絵画への言及など、生涯にわたって活動を続けた。
エズラ・パウンドの尽力により、ウェイリーの最初の翻訳がアメリカの文学雑誌『リトル・レビュー(英語版)』に掲載された。しかし、パウンドからのウェイリーの評価は様々であった。1917年7月2日、パウンドは『リトル・レビュー』の編集者マーガレット・C・アンダーソン(英語版)に宛てた手紙の中で「ウェイリーによる白居易の翻訳をようやく手に入れた。いくつかの詩は素晴らしい。ほぼ全ての翻訳が、彼のまずい英語と不完全なリズムによって損なわれている...。なにか良いものを買って、彼に下手な仕事を取り除いてもらおうと思っている(彼はロバや「学者」のように頑固だ)」 と書いている。ウェイリーは『老子道徳経』の翻訳"The Way and its Power"の序文で、現代の西洋の読者にとって意味がより重要であると合理的に考えられる翻訳では、文章の形式よりも意味の方を優先するように気をつけたと説明している。
生涯に多数の日本や中国の文学の翻訳や、それに関する著作を残した。その中には、"A Hundred and Seventy Chinese Poems"(漢詩百七十首、1918年)、"Japanese Poetry: The Uta"(日本の詩「歌」、1919年)、"The No Plays of Japan"(日本の能楽、1921年)、"The Tale of Genji"(『源氏物語』、1921年 - 1933年)、"The Pillow Book of Sei Shōnagon"(『枕草子』、1928年)、"Kutune Shirka"(『クトネシリカ』、1951年)、"Monkey"(『西遊記』の要約、1942年)、"The Poetry and Career of Li Po"(李白の詩と経歴、1959年)、"The Secret History of the Mongols and Other Pieces"(元朝秘史とその他の作品、1964年)などがある。『論語』や『老子道徳経』などの古典の翻訳や、中国古典哲学の解釈書"Three Ways of Thought in Ancient China"(古代中国の三つの思想、1939年)は、現在も出版されている。
作曲家ベンジャミン・ブリテンは、ウェイリーの1946年の中国の詩の翻訳"Chinese Poems"の中から6つの詩に曲をつけ、1957年に歌曲集『中国の歌(英語版)』(Songs from the Chinese)として発表した。
『源氏物語』
1925年から1933年にかけて6巻に分けて出版された『源氏物語』の翻訳"The Tale of Genji"は、同書の世界初の英語全訳である。詩的で美しい英語といわれ、出版されるとたちまちベストセラーとなった(ただし数ページの第38帖「鈴虫」は訳出していない)。「ここにあるのは天才の作品」「忘れられた文明が(……)いずこでも追従をゆるさない配列の美しさをもって蘇ってくる」「日本の黄金時代の古典 東洋最高の長編小説」等々、『タイムズ』紙などで絶賛された。またその訳文は「感情の優雅さと純粋な言葉の巧みさのどれだけが紫式部(レディ・ムラサキ)のもので、どれだけ翻訳者のものかわからない」と英文学としても高く評価された。「現代作家でもここまで心情を描ける作家はいない」と絶賛するなど、現在世界的に紫式部の評価が高いのは、紹介したウェイリーの功績と言える。また同書に触発され、日本研究を志し大成したドナルド・キーンなどの日本学者も多い。更に源氏物語を起点に他のウェイリーの訳著『The 'No' Plays of Japan』を読み、初めて〈能〉に興味を持った人も多く、日本文化に対するその後の国際的評価の高まりを考えるに、直接のみならず間接を含む影響は極めて大きい。なお『The Tale of Genji』はその後、イタリア語、ドイツ語、フランス語などに二次翻訳された。現在でも在日外国人記者などが、来日前に上司に薦められる書とも言われ[要出典]、日本の歴史伝統を理解するための必読書とされる。
ラフカディオ・ハーンを「日本を理解していない」と批判し、阿倍仲麻呂の和歌について漢文で書かれた後に和歌に翻訳された可能性を指摘するなど、東アジアの古典語に通じていたが、現代の日本語や中国語を話すことはできなかった[注釈 2]。"The Secret History of the Mongols"の序文で、自分は多くの言語に精通しているわけではないが、中国語と日本語はかなり詳しく、アイヌ語とモンゴル語はある程度知っており、ヘブライ語とシリア語も多少知っていると書いている。
またウェイリーは「ブルームズベリー・グループ」の一員で、女性関係が複雑で、その生涯も興味の対象となっている。特に人妻で、晩年結婚したアリスンと、謎めいた女ベリルとの三角関係は、ウェイリー没後に出された、アリスン・ウェイリー(英語版)『A Half of Two Lives』[注釈 4](訳書は「ブルームズベリーの恋」河出書房新社)に詳しい。
著作物
以下に、ウェイリーの著作物の一部を示す。
翻訳
A Hundred and Seventy Chinese Poems(漢詩百七十首), 1918
More Translations from the Chinese (Alfred A. Knopf, New York, 1919).
The Story of Ts'ui Ying-ying(鶯鶯伝(英語版)) – p. 101–113[13]
^ abNienhauser, William H. "Introduction." In: Nienhauser, William H. (editor). Tang Dynasty Tales: A Guided Reader. World Scientific, 2010. ISBN9814287288, 9789814287289. p. xv.
Gruchy, John Walter de. (2003). Orienting Arthur Waley: Japonism, Orientalism, and the Creation of Japanese Literature in English. Honolulu: University of Hawaii Press. 1ISBN 0-8248-2567-5.
Honey, David B. (2001). Incense at the Altar: Pioneering Sinologists and the Development of Classical Chinese Philology. American Oriental Series 86. New Haven, Connecticut: American Oriental Society. ISBN0-940490-16-1
Johns, Francis A. (1968). A Bibliography of Arthur Waley. New Brunswick, New Jersey: Rutgers University Press.
Morris, Ivan I.(アイヴァン・モリス) (1970). Madly Singing in the Mountains: An Appreciation and Anthology of Arthur Waley. London: Allen & Unwin.
Robinson, Walter (1967). “Obituaries – Dr. Arthur Waley”. Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland (1–2): 59–61. doi:10.1017/S0035869X00125663. JSTOR25202978.
Simon, Walter (1967). “Obituary: Arthur Waley”. Bulletin of the School of Oriental and African Studies, University of London30 (1): 268–71. JSTOR611910.
Spence, Jonathan. "Arthur Waley," in, Chinese Roundabout (New York: Norton, 1992 ISBN0393033554), pp. 329–336. [1]
Waley, Alison. (1982). A Half of Two Lives. London: George Weidenfeld & Nicolson. (Reprinted in 1983 by McGraw-Hill.)