アン・ハミルトン (1709-1748)アン・ハミルトン卿(英語: Lord Anne Hamilton、1709年10月12日 セント・ジェームズ・スクエア – 1748年12月25日 フランス)は、第4代ハミルトン公爵ジェームズ・ハミルトンの息子[1]。「アン」は一般的には女性の名前であり[2]、アン・ハミルトン卿の名前は名親のアン女王に由来する[1]。 生涯第4代ハミルトン公爵ジェームズ・ハミルトンと2人目の妻エリザベス(Elizabeth、旧姓ジェラード(Gerard)、1682年ごろ – 1744年2月13日、第5代ジェラード男爵ディグビー・ジェラードの娘)の三男として、1709年10月12日にロンドンのセント・ジェームズ・スクエアで生まれ[1]、11月13日に洗礼を受けた[3]。アン女王、初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル、第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーが名親を務めた[3]。「アン」という名前は名親のアン女王に由来する[1]。 1731年4月4日にエンサイン(歩兵少尉)としてコールドストリームガーズに入隊、1733年5月に軍務から辞任した[4]。兄ウィリアムの死去に伴い、1735年3月にラナークシャー選挙区で補欠選挙が行われると、アンは出馬したが、遠戚の第2代準男爵サー・ジェームズ・ハミルトンに敗れた[5]。 1748年12月25日にフランスで死去、1749年7月7日にピカデリーのセント・ジェームズ教会に埋葬された[1]。 家族2度結婚したとされるが、1度目の結婚については異説がある[1]。 1度目の結婚相手とされる人物はメアリー・エドワーズ(1705年ごろ – 1743年8月23日、フランシス・エドワーズの娘)だった[1]。メアリーは1728年の父の死に伴い多額の遺産を継承しており、レスターシャー、ノーサンプトンシャー、ミドルセックス、エセックス、ハートフォードシャー、ケント、ロンドンに領地を有し、年収5万から6万ポンド(2020年時点の681万から817万ポンドと同等[6])に上る裕福な相続人になっていた[1]。アンとメアリーはフリート監獄で結婚したとされた[1]。フリート監獄のチャペルでの記録はなく、『オックスフォード英国人名事典』は2人が法的には結婚していなかったと判断し、メアリー自身もハミルトン姓を名乗らず、後に結婚を否認した[7]。しかし、『ジェントルマンズ・マガジン』は1731年7月号で2人の結婚を報じ、メアリーは1731年7月8日にレスターシャーにおける領地の一部をアンに与え、紋章院も1733年8月15日にアンおよびその子女によるメアリーの紋章の使用を許可した[1]。同1733年9月にはアンが「エドワーズ」を姓に加えた[1]。また、ウィリアム・ホガースは1733年と1734年の2度にわたってが2人と息子ジェラード・アンの肖像画を描いている[7]。
『オックスフォード英国人名事典』の推測ではメアリーが資産の管理権を夫に譲りたくなかったため、結婚しなかったと主張したという[7]。いずれにしても、アンが浪費家だったため、2人はアンがメアリーの所有する株式の一部を着服したことで破局を迎えた[7]。2人は1734年5月22日に権利証書に署名し、アンが株式をメアリーに返還したことで関係が完全に断たれた[7]。 アンは1742年10月にバースでアン・シャーロッタ・マリア・ポウェル(Anne Charlotta Maria Powell、1791年6月26日没、チャールズ・ポウェルの娘)と結婚、2男をもうけた[1]。この結婚がメアリーの存命中に行われ、重婚の疑いをもたれなかったことから、『オックスフォード英国人名事典』はアンとメアリーが結婚しなかったと判断した[7]。
出典
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