アンリ・ルソー
アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー(Henri Julien Félix Rousseau、1844年5月21日 - 1910年9月2日)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの素朴派の画家。下手な画家と評されることが多いが、色彩感覚や繊細な表現に優れていた。 20数年間、パリ市の税関の職員を務め、仕事の余暇に絵を描いていた「日曜画家」であったことから「ドゥアニエ(税関吏)・ルソー」の通称で知られる[1]。ただし、ルソーの代表作の大部分はルソーが税関を退職した後の50歳代に描かれている。 生涯ルソーは1844年、マイエンヌ県ラヴァルに生まれた。高校中退後、一時法律事務所に勤務する。1863年から1868年まで5年間の軍役を経て1871年、パリの入市税関の職員となる。現存するルソーの最初期の作品は1879年(35歳)頃のものである。審査のあるサロンには落選したが、1886年から審査のないアンデパンダン展に出品を始め、同展には終生出品を続けている。1888年、最初の妻クレマンスが亡くなった。生まれた子供も幼くして亡くなり、2番目の妻ジョゼフィーヌにも1903年に先立たれるなど、家庭生活の面では恵まれていなかった。 ルソーは税関に22年ほど勤務した後、絵に専念するため1893年には退職して、早々と年金生活に入っている。税関退職前の作品としては『カーニバルの夜』(1886年)などがあるが、『戦争』(1894年)、『眠るジプシー女』(1897年)、『蛇使いの女』(1907年)などの主要な作品は退職後に描かれている。 ルソーの作品は、生前はロートレック、ゴーギャン、ピカソ、アポリネールなど、少数の理解者によって評価された。1908年にピカソが古物商でルソーの『女性の肖像』(ピカソ美術館蔵)をわずか5フランで購入した[2]のを機に、ピカソやアポリネールらが中心となって、パリの「洗濯船」(バトー・ラヴォワール)で「アンリ・ルソーを讃える宴」という会を開いた。冗談半分の会だったとも言われるが、マックス・ジャコブ、マリー・ローランサンなど当時モンマルトルを拠点としていた多くの画家や詩人がルソーを囲んで集まり、彼を称える詩が披露された[3][4]。感激したルソーは、アポリネールとローランサンを描いた絵画を贈呈したが、その容姿は二人とは似ても似つかないものだった。似ていないという評にルソーはもう一度描かせてくれと申し出、2作目を描き贈呈した。しかし、その絵は花だけを変更し、人物二人はほぼ同じだった[5]。 日本でも早くからその作風は紹介され、一部の画家に影響を与えた。影響を受けた画家としては、田中一村、妹尾一朗、加山又造らがいる[6]。 晩年の1909年、ルソーはある手形詐欺事件に連座して拘留されている。この件については、ルソーは事情をよく知らずに利用されただけだという説もあるが、真相は不明である。1910年に肺炎のため66歳で死去した。 ルソーの絵に登場する人物は大概、真正面向きか真横向きで目鼻立ちは類型化している。また、風景には「遠近感がほとんどなく」、樹木や草花は葉の1枚1枚が几帳面に描かれている。このような一見稚拙に見える技法を用いながらも、彼の作品はパブロ・ピカソからも評価され、19世紀末から20世紀初頭に、シュルレアリスムを先取りしたとも言える独創的な絵画世界を創造した。 彼の作品には熱帯のジャングルを舞台にしたものが多数ある。画家自身はこうした南国風景を、ナポレオン3世とともにメキシコ従軍した時の思い出をもとに描いたと称していたが、実際には彼は南国へ「行ったことはない」。パリの植物園でスケッチしたさまざまな植物を組み合わせて、幻想的な風景を作り上げたのであった。また、写真や雑誌の挿絵を元にして構図を考えた作品があることも判明している。 代表作
日本にあるアンリ・ルソー作品
ギャラリー
画集
書籍
脚注
関連項目外部リンク
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