アントン・モーヴ
アントン・モーヴ(またはアントン・マウフェ、Anthonij (Anton) Rudolf Mauve、1838年9月18日 - 1888年2月5日)は、オランダの写実主義の画家である。ハーグ派のリーダーの一人であった。義理の従兄弟であるフィンセント・ファン・ゴッホの初期作品への影響でも知られる。 生涯アントン・モーヴは、1838年、オランダ北ホラント州のザーンダムの町で生まれた。1歳の時、メノナイトの牧師だった父ヴィレム・カレル・モーヴが州都ハールレムに転勤となり、アントンはそこで育った。 オランダの画家Pieter van Os、次いでWouterus Verschuurのもとで絵を勉強した。さらに、パウル・ハブリエル(Paul Gabriël)と親交を結び、「オランダのバルビゾン」と呼ばれたオーステルベークに度々一緒に出かけて自然の絵を描いた。ヨゼフ・イスラエルスやウィレム・マリスとも交友した[1]。 1872年、モーヴはハーグに居を構え、ハーグ派の主要画家となった。1876年、オランダ絵画協会の設立者の一人となり、また当時のハーグで最も有力な絵画協会であったプルクリ・スタジオにおいても主導的な役割を担った。 晩年2年間、彼は北ホラント州ラーレンの村に、ヨゼフ・イスラエルスやアルベルト・ヌーハイスとともに移り、「ラーレン派 (Larense School)」と呼ばれるようになった。 作品屋外の人々や動物を描いた作品が多い。例えば「浜辺の朝の乗馬」という作品では、上等の服を来た男たちが馬に乗り、鑑賞者から遠ざかっていくところが描かれる。伝統にとらわれない細部の描写や、手前に馬の糞を描いているところなどは、彼の写実主義への忠実さを示している。 また、畑で働く農夫の絵画、羊の群れの絵でも有名である。
ゴッホとの関係モーヴの妻アリーテ・ソフィーア・ジャーネッテ・カーベントゥス(Ariëtte (Jet) Sophia Jeannette Carbentus)は、ゴッホの従姉妹であり[2]、ゴッホは画家を志した初期にモーヴを頼り、その影響を受けた。ゴッホの手紙の中でも繰り返しモーヴの名前が言及されている。 ゴッホは、1881年末にモーヴのアトリエで3週間を過ごし、油絵と水彩画の手ほどきを受けた。モーヴは、ゴッホを励まし、部屋代を貸してやったりもしたが、次第に彼への態度は冷たくなった[3]。1882年5月の弟テオへの手紙の中で、ゴッホは、モーヴとの間で「とても残念な会話」があり、2人の関係は終わったと述べている。そして、それに続けて身重の娼婦シーン(クラシーナ・ホールニク)と自分の交際関係について弁護している[4]。モーヴの態度が変わったのは、ゴッホとシーンの関係を聞いたためではないかと考えられる。ただ、ゴッホのモーヴに対する敬意はその後も変わらず、モーヴの急死を聞いて、ゴッホは1枚の絵を彼の思い出として描いている[5]。 脚注
参考文献
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