アントン・アズベ
アントン・アズベ(Anton Ažbe、1862年5月30日 - 1905年8月6日)はスロベニアの画家である。ミュンヘンで、私立の美術学校を運営し、有名な画家、ワシリー・カンディンスキー や アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー を教えた。 略歴オーストリア=ハンガリー帝国領であったはスロベニアのゴレニャ・ヴァス=ポリャネの農家に生まれた。体に障害があって農作業に適さなかったので、商人の見習いとなった。リュブリャナで画家のヴォルフ(Janez Wolf)と知り合い、美術の教育を受け、助手として働いた。1882年の秋、ウィーン美術アカデミーに進み、ジークムント・ラレマント(Siegmund L'Allemand)、アイゼンメンガー(August Eisenmenger)、クリスティアン・グリーペンケール(Christian Griepenkerl)らに学んだ。同時期の学生には、セルビア出身のウロシュ・プレディッチ(Uroš Predić:1857–1953)がいた。 ウィーン美術アカデミーの保守的な教育に不満を持ち、1884年に当時、新しい美術の中心地の一つであったミュンヘンで学ぶ決心をして、ミュンヘン工芸学校( Münchner Künstlergenossenschaft)に移り、はじめハックル(Gabriel von Hackl)の指導を受けた。1885年にミュンヘン美術院に移り、ルートヴィヒ・フォン・レフツに学んだ。 1891年には同じスロベニア人の友人のリハルド・ヤコピッチらの助言で、個人の美術学校を開き、当初20人ほどの学生で発足した学校は、官立の美術学校の保守的な教育に満足できない学生を集めて100人ほどの学生を集めた。特に東欧からの学生を集めた。ロシアのサンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミーは予備コースとして、アズベの美術学校を推奨した。 有名な学生だった画家には、抽象絵画の創始者とされワシリー・カンディンスキーや表現主義の画家アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーらがいる。 10年を超えるの美術学校を開いていた期間、ほとんど一人で教えた。1904年に癌を発症し、1905年に没した。 アズベの教えた学生
作品
参考文献
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