アレクサンドル・ドルゴポロフ
アレクサンドル・オレクサンドロヴィチ・ドルゴポロフ(Alexandr Oleksandrovych Dolgopolov , ウクライナ語: Олександр Олександрович Долгополов, 1988年11月7日 - )は、ウクライナ・キエフ (現:キーウ)出身の元男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス3勝、ダブルス1勝を挙げている。 自己最高ランキングはシングルス13位、ダブルス42位。身長180cm、体重71kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 旧名はオレクサンドル・ドルゴポロフ・ジュニア(Oleksandr Dolgopolov Jr.)で2010年5月に現在の名前に改名した。 選手経歴ジュニア時代アンドレイ・メドベデフのコーチだった父のオレクサンドル・ドルゴポロフの手ほどきで3歳からテニスを始める。母のエレナは体操競技の選手で欧州選手権で金メダルと銀メダルを獲得したことがある。 2006年 プロ転向2006年にプロに転向。 2007年 グランドスラム参戦2007年全豪オープンから4大大会の予選に挑戦を始める。 2010年 グランドスラム初勝利2010年全仏オープンで本戦初出場を果たし、1回戦でアルノー・クレマンを3-6, 7-6(5), 3-6, 6-3, 6-3で、2回戦でフェルナンド・ゴンサレスを6-3, 6-4, 6-3で破り3回戦に進出した。 2011年 全豪ベスト8 ツアー初優勝 マスターズダブルス初優勝2011年全豪オープンでは本戦初出場ながら快進撃を続け、3回戦で第13シードのジョー=ウィルフリード・ツォンガを3-6, 6-3, 3-6, 6-1, 6-1で、4回戦で第4シードのロビン・セーデリングを1-6, 6-3, 6-1, 4-6, 6-2で破りベスト8に進出する。準々決勝では第5シードのアンディ・マリーに5-7, 3-6, 7-6(3), 3-6で敗れた。 2月のブラジル・オープンではツアー初の決勝に進出。ニコラス・アルマグロに3-6, 6-7(3)で敗れて準優勝となった。メキシコ・オープンでもベスト4に進出した。 3月のBNPパリバ・オープンではグザビエ・マリスと組み北京五輪金メダルのロジャー・フェデラー&スタニスラス・ワウリンカ組を、6-4, 6-7(5), [10-7]で破りツアー初のダブルスのタイトルを獲得した。 7月のクロアチア・オープンではシングルス決勝で地元のマリン・チリッチを6-4, 3-6, 6-3で破り、シングルス初優勝を果たした。 2012年 ツアー2勝目2012年8月のシティ・オープンでは決勝でトミー・ハースを6–7(7), 6–4, 6–1で破りツアー2勝目を挙げた。 2014年 マスターズベスト4![]() 2月のリオ・オープンでは決勝でラファエル・ナダルに敗れ、準優勝となったが、3月のBNPパリバ・オープンでは3回戦でナダルを6-3, 3-6, 7-6(5)で破り、世界ランキング1位に初めて勝利し、ベスト4に進出。マイアミ・オープンでは世界3位のスタン・ワウリンカを破ってベスト8進出。 2015年 マスターズベスト42015年1月、ブリスベン国際に錦織圭とダブルスを組んで出場。準優勝を飾る。 2015年8月のシンシナティ・マスターズでは第4シードの錦織圭が大会直前に欠場したため、予選通過者の中から抽選で選ばれたドルゴポロフが錦織の第4シードの枠に入った。そしてバーナード・トミック、イェジ・ヤノヴィッツ、第6シードのトマーシュ・ベルディハに勝利し準決勝進出、準決勝では第1シードのノバク・ジョコビッチに敗れるも第1セットを取る健闘を見せた。 2016年 ホップマン杯準優勝![]() 2016年のホップマンカップでは同国のエリナ・スビトリナと組んでウクライナ代表として出場。オーストラリア代表との決勝戦ではニック・キリオス組みに3–6, 4–6で敗れた。 ![]() その後、2016年ウィンブルドン選手権に出場。苦戦の末に1回戦でロシアのエフゲニー・ドンスコイを破り、2回戦でダニエル・エバンスにストレートで敗れた。シティ・オープンに第11シード出場。2回戦でオーストラリアの若手ジョーダン・トンプソンと対戦し、勝利。3回戦でサム・クエリーにストレートで敗れた。ロジャーズ・カップにも出場し、1回戦でドナルド・ヤングに敗れた。不調の1年間となり、年間最終ランキングは62位。 2017年 ツアー3勝目2017年2月のアルゼンチン・オープンでは3年ぶりにツアー決勝進出。決勝では錦織圭に7-6(4), 6-4で勝利し、5年ぶりのツアー優勝を果たした[1]。 2018年 手首の手術2018年はBNLイタリア国際を最後に手首の怪我により欠場した。2019年5月22日に自身のSNSで復帰について言及した[2]。 2021年 引退2021年5月1日に現役引退を発表。「人生全てをかけた素晴らしい道のりだった。みんなが僕のプレーで楽しんでくれたことを祈っている。僕自身、自分のテニスはとても面白かった。記録などは破ることができなかったけど、ファンが楽しめればそれでいい。3年前の全豪オープンの練習中に手首を痛めた。その時は大きなけがにはならないと思っていたけど、まさかそれでキャリアを終えることになるとは考えもしなかった。数年間挑戦して2度の手術を行ったけど、痛みは消えなかった」とこれまでの経緯を明かし、正式に引退した[3]。 2022年 防衛参加引退後はビジネスを営みながら休息をしていたが2022年ロシアのウクライナ侵攻により、母国ウクライナのために防衛参加を決めた。SNSには「かつてはラケットとストリング、今はこれ」と防弾ジャッキや手榴弾の写った写真を投稿して、戦争の現状を述べた[4]。 ATPツアー決勝進出結果シングルス: 9回 (3勝6敗)
ダブルス: 2回 (1勝1敗)
ホップマンカップ: 1回 (1敗)
成績
W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.
大会最高成績
脚注
外部リンク
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