アレクサンドル・ウリヤノフ
アレクサンドル・イリイチ・ウリヤノフ (ロシア語: Алекса́ндр Ильи́ч Улья́нов, ラテン文字転写: Aleksandr Il'ich Ul'yanov, 1866年4月13日 - 1887年5月20日)は、ロシアの動物学者、革命家。ロシア帝国末期の反皇帝運動に加わり、アレクサンドル2世を暗殺したソフィア・ペロフスカヤの秘密結社「人民の意志」の一員としてアレクサンドル3世暗殺計画に関与する。計画失敗後、助命嘆願を拒否して刑死した。 マルクス主義によるロシア革命を主導した革命家ウラジーミル・レーニン(ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ)の実兄(レーニンにとっては長兄)にあたる。 生涯生誕と家族の移住1866年4月13日、カルムイク系ロシア人の物理学者イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフと、ユダヤ系スウェーデン人の教育家マリヤ・アレクサンドロヴナ・ブランクの長男としてニジニ・ノヴゴロド市に生まれる。父が帝国政府からシンビルスク州(後にウリヤノフスク州と呼ばれる)の教育総監に任命され、兄弟姉妹で共に移住する。 サンクトペテルブルク大学入学1883年、シンビルスクでの教育を終えるとサンクトペテルブルク大学理学部に入学許可を受け、帝都に移り住んで動物学を専攻した。2人の弟ウラジーミルとドミトリーもそれぞれ法学者と医学者の道に進み、学者一家としての期待に応えていた。在学中も優秀な学生として過ごし、自然科学分野での学業成績で表彰されている。 「人民の意志」への参加一方で自由主義者であった父の影響もあり、帝国内で高まりつつあった反王党派運動に共感を持ってナロードニキ派の秘密結社「人民の意志」に参加している。「人民の意志」は指導者ソフィア・ペロフスカヤによる皇帝アレクサンドル2世暗殺に成功したが、同時にペロフスカヤらも処刑されて組織は壊滅状態にあった。アレクサンドルはイデオローグ(理論家)として影響を持ち、従来の組織におけるスローガンであったナロードニキ主義に加えてマルクス主義を運動に取り込んでいった。すなわち労働者を国家の中心とし、これを知識人階層が指導することで君主制自体を打倒することを掲げ、何よりその手段としてのテロリズムを肯定した。 暗殺計画と処刑組織を再建したアレクサンドルは「人民の意志」の残党によるテロを計画、アレクサンドル2世暗殺事件から6年目となる1887年3月1日にその息子である現皇帝アレクサンドル3世暗殺を決行する。しかし事前に計画を察知していた護衛部隊によって、実行部隊はネフスキー大通りでの式典を襲撃する直前で拘束され、アレクサンドルも「人民の意志」の残党を扇動した容疑で逮捕された。参加した者の中には恩赦を受けて死罪を免れた者もいたが、アレクサンドルは抗弁も嘆願もせず、死罪を宣告された。 1887年5月20日、アレクサンドルは組織の幹部であるパホーミー・アンドレーイシュキン、ヴァシーリー・ゲネラーロフ、ヴァシーリー・オシパーノフ、ピョートル・シェヴィリョーフらとシリッセルブルクで絞首刑に処された[1]。21歳没。 死後また組織の一員でポーランド系ロシア人であった人類学者ブロニスワフ・ピウスツキ(ポーランド独立を指導した政治家ユゼフ・ピウスツキの兄)は樺太に流刑とされ、この際の経験からアイヌ人についての記録をまとめている。 この事件は日本にも影響を与え、宮崎夢柳が「虚無党実伝記鬼啾啾」を書き、出版条例違反として軽禁固の判決を受ける騒動が起きている。 後に長弟レーニンが成立させたソビエト連邦ではレーニンの父で自由主義者あったイリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフと並んで顕彰され、1972年にソ連の天文学者タマラ・スミルノワが発見した小惑星にウリヤノフ (小惑星)の名を冠している[2]。 二人の弟への影響とその議論
人物ツァーリへの助命嘆願をするように頼む母アレクサンドロヴナに対して「二人の男が決闘していると思って下さい。一人がピストルを撃ったが弾はそれた。彼はもう一人の男に対して「撃たないでくれ」なんて言えますか」と述べたという。 家族・親族
脚注
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