上記のような日本人学校の日本本国との関係、さらに日本人学校がハワイ・サトウキビ生産者協会に対する日系人の1909年および1920年のストライキを含む労働運動を後押ししたという評されたことは、日系アメリカ人コミュニティ内の宗教や社会的階級の問題を浮き彫りにしただけではなく、アメリカ合衆国民の反日感情の悪化をもたらした。仏教団体が学校の設立に深く関与していた中で、日系アメリカ人のキリスト教徒の多くは独自の競合校を設立したが、これに対して同化者的な考えを抱くその他の人々は彼らのやり方に反対した。[要出典]さらに日本人以外の者は、日本人学校が日系アメリカ人の子供たちを洗脳し、日本政府がアメリカを植民地化する広範囲な戦略を策定していると非難した。学校に対して懐疑的な見方をし、公立学校の教師とアメリカ海軍情報局は彼らに「反米」のレッテルを貼ることさえした。[7] 反日感情は日本人移民の数とともに増していき、移民排他主義者のグループは、19世紀後半から20世紀前半まで日本人の移民制限、市民権上の人種制限の形成、差別的財政法の制定を強く働きかけ、さらに黄禍論を巻き起こした。1920年代頃には日本語学校まで目をつけられるようになった。連邦教育委員会の1920年の報告書は、163の日本人学校の20,000人もの生徒はアメリカの習慣、マナー、理想、本質そして基準の面で遅れをとっていると指摘し、日本人学校を公教育システムに引き継がせることを推奨した。[3] 地方議会は、教師や生徒の出席頻度を規制する法律を規定し、1923年にClark Billは学生税を課し、税金が不払いになった場合に多くの学校は閉鎖せざるを得ないようにした[3][8]。1921年にはカリフォルニアの政治家達は学校の公教育管理局の教師認定のための広範な要件を制定し、雇用や運営、カリキュラムに完全な制限を設けるParker Billを策定した。[3] 1922年12月後半、ハワイの16の学校はこうした制限に対する原告団を結成して訴訟を提起した。この訴訟は日系アメリカ人コミュニティ内で論争となり、保守的なメンバーはこの訴訟が日系アメリカ人と白人との間に更なる楔を打ち込むことになるとの見方をし、反日の偏見を悪化させるだけだと主張した。146校のうち88校が最終的に訴訟に参加した。このFarrington v. Tokushige(英語版) 事件は、下級審を経て、1927年、最高裁判所で規制は違憲とする判決が下された。[8] なおその間の1924年にはいわゆる排日移民法が施行されている。
第二次世界大戦以前のアメリカ合衆国では外国語学習への関心は限られており、非継承語話者への教育はより遅れていた。ある1934年の調査ではアメリカの大学で日本語教育を提供している学校は8校のみで、そのほとんどが1大学につき1人の講師のみで担当されていた。さらなる調査では、使用言語として日本語が十分堪能であると推定された教師は13人のみだった[9]。1940年になっても日系人以外で日本語の読み書きおよび理解ができる人は65人のみだった[10]。日系二世の、日本人学校のコミュニティの卒業生でさえ、本当に日本語が流暢な人は稀であった。1941年のアメリカ陸軍情報部による調査では、3,700人の日系二世のうち3%が長期的な教育を経れば堪能になる可能性があるとされ、4%は既に堪能であるが追加教育が必要で、わずかに3%のみが日本語での語学業務に適任であるとされた。[3] こうした人材不足の中で、米軍はアメリカ合衆国の第二次世界大戦への参戦前の段階においても日本語が堪能な人材を必要性としていたため、MIS(軍事情報サービス)の中に、通訳者、取締役官や翻訳家のための専門的な学校(軍事情報語学学校)を設立した。この学校は、最初はサンフランシスコのPresidio of San Francisco(英語版)に開設されたが、1942年に発令された、米西海岸から日系アメリカ人を排除する立ち退き命令によって、アメリカ陸軍情報部語学学校は移転をする必要に迫られ、その後はミネソタに移り、当初はCamp Savage(英語版)そして規模拡大によりFort Snelling(英語版)へ移った。この学校は全盛期には3,000人の日系アメリカ人が在籍して一大コミュニティを築き、最終的には6,000人の日系アメリカ人が卒業生となった。[11][12]
^ abMorimoto, Toyotomi (1997). Japanese Americans and Cultural Continuity: Maintaining Language through Heritage (Garland Reference Library of Social Science). United Kingdom: Routledge. pp. 17–26
^Harada, Koichi Glenn (1934). A Survey of the Japanese Language Schools in Hawaii. Honolulu: University of Hawaii. pp. 43
^Takagi, Mariko (1987). Moral Education in Pre-War Japanese Language Schools in Hawaii. Honolulu: University of Hawaii. pp. 18
^ abAsato, Noriko (September 2005). Teaching Mikadoism: The Attack on Japanese Language Schools in Hawaii, California, and Washington, 1919-1927. Honolulu: University of Hawaii
^ abNiiya, Brian. Japanese American History: An A-to-Z Reference from 1868 to the Present (1993), p 190.
^Takagi, Yasaka (1935). Japanese Studies in the Universities and Colleges of the United States: Survey for 1934. Honolulu: Institute of Pacific Relations
^Shimada, Noriko (June 1998). “Wartime Dissolution and Revival of the Japanese Language Schools in Hawai'i: Persistence of Ethnic Culture”. Journal of Asian American Studies1 (2): 121–151. doi:10.1353/jaas.1998.0022.
^Kikuoka, Tadashi (December 1964). “The Training of Secondary School Teachers of Japanese”. The Journal-Newsletter of the Association of Teachers of Japanese (Association of Teachers of Japanese) 2 (3): 13–18. doi:10.2307/488774. JSTOR488774.
^Walton, A. Ronald (Winter 1993). “Japanese Language in US High Schools: A New Initiative”. The Modern Language Journal (Blackwell Publishing) 77 (4): 522. doi:10.2307/329677. JSTOR329677.
^Tsukuda, Yoko. "Japanese American Transnational Families." In: Zhao, Xiaojian and Edward J. W. Park. Asian Americans: An Encyclopedia of Social, Cultural, Economic, and Political History [3 volumes]: An Encyclopedia of Social, Cultural, Economic, and Political History. ABC-CLIO, November 26, 2013. ISBN 1598842404, 9781598842401. Start p. 602. CITED: p. 604.
Jorden, Eleanor H.; Lambert, Richard D. (1991). Japanese Language Instruction in the United States: Resources, Practice, and Investment Strategy. Washington, DC: National Foreign Language Center
“変化への挑戦:アメリカにおける日本語教育のあゆみ (Challenge of Change: the History of Japanese Language Instruction in the United States)”. 日本語教育通信 (Nihongo Kyōiku Tsūshin)1 (2): 1–7. (Spring 1990).