アダム・マリク
アダム・マリク・バトゥバラ(インドネシア語: Adam Malik Batubara, 1917年7月22日 - 1984年9月5日)は、インドネシアの政治家、外交官、ジャーナリスト。同国第3代副大統領、第4代国民協議会議長、第7代国民議会議長、第11代外務大臣、第26代国際連合総会議長を務めた。 経歴1917年7月22日にオランダ領東インド、プマタン・シアンタールにて、アブドゥル・マリク・バトゥバラとサラマ・ルビスの間に、9人兄弟の3番目として誕生する[1]。比較的恵まれた環境で育ち、現地民のための学校で教育を受けた。 マリクは1937年に、アンタラ設立の先駆者となり、植民地政府による政治集会の禁止に従わなかったために投獄されるなど、インドネシア独立に対して積極的であった[2]。1945年8月17日の独立に向けて、レンガスデンクロック事件やインドネシア独立宣言に関わり、独立後は国民議会議員や商業大臣など多くの政府職を歴任し、スカルノ失脚後も継続した。 1966年に外務大臣に任命され、1977年に国民議会および国民協議会議長に選出された。1978年3月23日、健康状態の悪化を理由に再指名に応じないと表明したハメンクブウォノ9世の後任として、インドネシア共和国第3代副大統領に選出された。マリクは副大統領として、政府の封建主義的な構造の増大と汚職の蔓延を「疫病」と呼んで批判した[3]。 1983年3月11日、マリクの副大統領としての任期が終了し、ウマール・ウィラハディクスマが後任となった。マリクは1984年9月5日に肝臓癌のため、西ジャワ州バンドンで亡くなった。遺体はカリバタ英雄墓地に埋葬され、妻のネリー・アダム・マリクと子供たちはアダム・マリク博物館を設立した。マリクは、1998年11月6日にインドネシア国家英雄に指定された。 脚注
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