アシッドジャズ
アシッドジャズ(acid jazz)は、1980年代にイギリス[1][2][3][4] のクラブシーンから派生したジャズの文化。ジャズ・ファンクやソウル・ジャズ等の影響を受けた音楽のジャンル。レコードレーベルの名称。 概要1981年、ロンドン・カムデンのクラブ「Electric Ballroom」にて、DJのポール・マーフィーがジャズのレコードを選曲するイベント「Jazz Room」を開催した。また、マンチェスターではクラブ「Berlin」のDJ コリン・カーティスやクラブ「Ritz」のダンス・グループ、ジャズ・ディフェクターズによるジャズ・イベントが話題となり、ジャズに合わせて踊る文化が生まれた。[3] 1984年、「Jazz Room」はロンドン・ソーホーのクラブ「The Wag Club」へ移転し、ジャイルス・ピーターソン、バズ・フェ・ジャズらのDJを輩出した。[3][1][5][4] 1985年にサイモン・ブース率いるワーキング・ウィークは、「Electric Ballroom」で選曲されていたフュージョンに影響を受けてアルバム『ワーキング・ナイツ』を制作した。サイモン・ブースは、アルバム『ワーキング・ナイツ』に収録された「Stella Marina」がアシッド・ジャズとして最初に作られた楽曲であるとの見解を示している。[3][4] 1985年、DJのクリス・バングスとジャイルス・ピーターソンによりジャズ・イベント「Special Branch」、「Mambo Madness」が開催され、クラブにおけるジャズ・シーンが発展する。その後、「Special Branch」は、スペインのイビサ島で開催されるまでに規模が拡大した。[4] 1986年に、ロンドン・カムデンロックのクラブ「Dingwalls」で開催されたジャイルス・ピーターソン、パトリック・フォージ、ボブ・ジョーンズらのDJによるイベント「Talkin' Loud and Saying Something」が反響を呼び[6]、ジャズのムーブメントは定着していった。 1988年、ファッション雑誌『I.D.』が、クリス・バングス、ジャイルス・ピーターソンらを特集したことにより、ジャズ・シーンは急激に勢いをつけ、1990年には、イギリス全国のクラブ、バー、パブ、大学等で数多くのイベントが催され、アシッド・ジャズのスタイルが確立した。アシッド・ジャズ・シーンは、従来のジャズ・ダンス・シーンと音楽性に変わりはなく、同一のジャズ・ムーヴメントを指している。[4] アシッド・ジャズの普及には、ポール・ブラッドショウが編集長を務める音楽雑誌『Straight No Chaser』も貢献した。[3][5] 同誌はアシッド・ジャズを頻繁に取り上げた他、アートワークを重視しアシッド・ジャズのイベント・フライヤーを手掛けるイアン・スウィフト (Swifty)を表紙のデザイナーに起用した。イアン・スウィフトは、ジャイルス・ピーターソンが設立したレーベル「トーキング・ラウド」のアートワークも数多く手掛けている。[3] アシッド・ジャズを掲げたクラブのイベントでは、ジャズ・ファンク、ソウル・ジャズを中心に、ジェームス・ブラウン等のファンク[7]や、ハンク・モブレーの「Recado Bossa Nova」、ウッディ・ハーマンの「The Sidewinder」といったスタンダード・ジャズから、ボサノヴァ/ブラジリアン、ブーガルー等のラテンジャズまで、様々な楽曲がDJによって選曲された。[5] また、時代の経過とともに、ジャズの音源をサンプリング・ソースに用いたヒップホップやハウスも選曲されるようになった。[1][7][4] 語源とその背景アシッド・ジャズのアーティストであるスノウボーイが語源について関係者へインタビューを重ねたところ、1988年2月6日にミドルセックス州ブレントフォードのウォーターマンズ・アーツ・センターで行われたイベント「Special Branch」で、DJプレイ中のジャイルス・ピーターソンと共にDJブースの中にいたクリス・バングスが、二人の背後に設置されたプロジェクターで点滅する「ACID」の文字を見て「アシッド・ジャズ」との言葉を発案したことがわかった。[4] その後、ジャイルス・ピーターソンはマイクを使い「アシッド・ジャズ」と発したことから[8][4]、エディ・ピラー、サイモン・ブースらの間にその呼称が伝わったとされる[4]。 1988年3月26日、クリス・バングスとジャイルス・ピーターソンによりアシッド・ジャズを掲げた初のイベント「Cock Happy」が行われている。[4] その一方で、1987年に「アシッド・ジャズ・レコーズ」を設立した[9]エディ・ピラーによると、1985年頃にクリス・バングスとジャイルス・ピーターソンが「The Wag Club」で行っていた月曜セッションと「Royal Oak」等で行っていたイベント「Special Branch」にて「アシッド・ジャズ」との言葉が生まれたとしており[2]、呼称の由来となる、発祥した場所と年時に相違はあるが、スノウボーイとエディ・ピラーの対談において、クリス・バングスが呼称の発案者であるとの見解は一致している。[4] また、クリス・バングス自身も呼称の発案者であることを自認している。[4] クリス・バングスが「アシッド・ジャズ」との言葉を発案する際にジャイルス・ピーターソンの選曲していた楽曲は、諸説が存在する。アート・ブレイキーの「The Feast」とサブー・マルティネスの「Message From Kenya」を選曲していたとする説が多勢を占める中、本人のジャイルス・ピーターソンとスノウボーイは、ミッキー&ソウル・ジェネレーションの「Iron Leg」の7インチ・レコードを選曲していたとし[10][4]、エディ・ピラーはジェームス・ブラウンの「In The Middle」を選曲していたとしている[4]。 主要なレコード・レーベル1987年[9]、「キッズのための、キッズによるジャズ」をコンセプトに、エディ・ピラーとジャイルス・ピーターソンによって「アシッド・ジャズ・レコーズ」レーベルが設立され[2]、ジャミロクワイのデビュー・シングル「When You Gonna Learn」の他、オムニバス盤「Totally Wired」シリーズをリリースした。アシッド・ジャズ・レコーズから独立したジャイルス・ピーターソンは、1990年に「トーキング・ラウド」レーベルを設立し、1991年に全英シングルチャート(Music Week)6位を記録したインコグニートのシングル「Always There」[11]をはじめ、オマー「There's Nothing Like This」[12]、ガリアーノ「Long Time Gone」[13]、ヤング・ディサイプルズ「Apparently Nothin'」[14]等、全英シングルチャート20位以内にランクインするヒット・シングルをリリースした。 カテゴリーの著名なアーティストとしてインコグニート、ジャミロクワイ、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、US3、日本ではユナイテッド・フューチャー・オーガニゼイション、MONDO GROSSO、キョート・ジャズ・マッシヴらが挙げられる[4]。アーティストにより様々な作風を持ち、カテゴリーの統一性を持ち合わせていないが、ブルーノート・レコードのBNLA期[15]にリリースされたジャズ・ファンク[16][17][18]やギル・スコット・ヘロン[2][19]、ファラオ・サンダース[20]らのスピリチュアル・ジャズ、1970年代に発表されたスティーヴィー・ワンダー [21]、マーヴィン・ゲイ [22]らのソウルミュージックをモチーフにしている。 ジャズ・ファンクジャイルス・ピーターソンらのDJに「ファンク・ジャズ」と呼ばれていたジャズ・ファンクは、16ビートのフュージョンとは異なり、ジャズのアンサンブルで16ビートのリズムを持つ楽曲を指している。[23] プレスティッジ・レコード7000番台のアルバム、プーチョ&ザ・ラテン・ソウル・ブラザーズ『ヒート!』や、10000番台のアルバム、ファンク・INC.『ファンク・INC.』等の作品の他、ブルーノート・レコードより1967年にリリースされたルー・ドナルドソンのアルバム『アリゲイター・ブーガルー』から1971年にリリースされたグラント・グリーンのアルバム『シェイズ・オブ・グリーン』、BNLA期ではドナルド・バードのアルバム『ブラック・バード』等が含まれる。[23] ヒップホップジャイルス・ピーターソンが、パブリック・エナミーとブランフォード・マルサリスが共演した「Fight The Power」やロニー・リストン・スミス「Expansions」のフレーズをサンプリングしたステッツァソニックの「Talkin' All That Jazz」をクラブやFMで選曲したことに始まる。[1][4][24] 次第にアシッド・ジャズのムーブメントとヒップホップが呼応を始め、Straight No Chaser誌(1990年 ISSUE9)では「Hip Hop Meets Be Bop」を特集した。1990年にはアシッド・ジャズのグループ、ヤング・ディサイプルズがプロデュースしたドリーム・ウォリアーズのシングル「My Definition Of A Boombastic Jazz Style」が、全英シングルチャート(1990年11月)13位[25]を記録した。また、映画『モ'・ベター・ブルース』のサウンドトラックよりシングルカットされたギャング・スターの「Jazz Thing」や、ジャズ・ベーシストのロン・カーターが参加したア・トライブ・コールド・クエストのアルバム『ロウ・エンド・セオリー』は、アシッド・ジャズのDJにより評価された。[2] 以降、ヒップホップとのコラボレーションが発展を遂げ、ギャング・スター、ファーサイド、メインソースらヒップホップ・アーティストが参加したブラン・ニュー・ヘヴィーズのアルバム『ヘヴィ・ライム・エクスプレスVOL.1』[26]や、エンディア・ダベンポート(ブラン・ニュー・ヘヴィーズ)、コートニー・パイン、ドナルド・バード、ブランフォード・マルサリス、ロイ・エアーズ、ロニー・ジョーダン、ロニー・リストン・スミスらのジャズ・アーティストが参加したグールーのアルバム『ジャズマタズ (ヒップ・ホップ・ジャズ革命)』[27]がリリースされた。 アシッド・ジャズのDJが取り上げた楽曲の中からヒット曲も生まれた。1992年に、ボブ・ジェームスの「Tappan Zee」をサンプリングしたアレステッド・ディベロップメントのシングル「People Everyday」[2]が全英シングルチャート2位[28]、全米チャート(Billboard Hot 100)8位を記録[29]。1993年には、ディゲイブル・プラネッツが、アート・ブレイキー、ザ・クルセイダーズ、マイルス・デイヴィスらの音源をサンプリングしたアルバム『リーチン』でグラミー賞ベスト・ラップ・パフォーマンスを受賞した。[1] 1994年、ハービー・ハンコックの「Cantaloupe Island」をサンプリング・ソースに用いたUS3のシングル「Cantaloop」が、全米チャート(Billboard Hot 100)9位[30]のヒットを記録している。また、「Cantaloop」はブルーノート・レコードよりリリースされ、公式に音源のサンプリング使用を認められた。[2][31] ボサノヴァ/ブラジリアンコリン・カーティスは、1980年代初頭からアメリカ盤のブラジリアン・フュージョンをクラブで選曲していた。[1] 1985年、ジャイルス・ピーターソンが監修したDJ向けのコンピレーション・アルバム『Jazz Juice Vol.1』に、セルジオ・メンデスの「Mas Que Nada」やアイアート・モレイラの「Celebration Suite」等、アメリカ製のブラジル音楽が収録された。バトゥカーダを基調にした「Celebration Suite」は、アシッド・ジャズのクラブで人気となり、その後、複数のカバー・バージョンがリリースされている。[32] 1986年に「Far Out Records」のジョー・デイヴィスが、入手困難なブラジル盤レコードを現地から輸入してDJへ供給を始めたことにより、1960年代のジャズ・サンバやMPBがクラブ・シーンに紹介された。[1] MPBの代表的なアーティスト、ジョイスのアルバム『フェミニーナ』に収録された「Aldeia De Ogum」は、アシッド・ジャズ・シーンにおいて取り分け人気が高く、ジョイスのロンドン公演「トーキング・ラウド・セッション」の際には、観客がロック・コンサートさながらの盛り上がりを見せた。[1] ジョイス同様に女性シンガーのエリス・レジーナも高く評価されており、代表曲の「Upa,Negrinho」は、エドゥ・ロボのオリジナル・バージョンと共にジャズのDJの間でスタンダードとなっている。[31] 1992年にセルジオ・メンデスは、サンバ・ヘギ(レゲエ調のサンバ)のリズム[33] を取り入れたシングル「What Is This?」をリリースした。[34] 「What Is This?」は、アシッド・ジャズの著名なDJにプレイされて話題となり[2] セルジオ・メンデスは新しいリスナーを獲得した。[35] モッズ1985年、モッズ・ムーヴメント第二世代の主要人物エディ・ピラーが、「Royal Oak」で行われていたジャイルス・ピーターソンのジャズ・イベント「Special Branch」に足を運び始めた。イベントで選曲されていたジミー・スミス、ジミー・マクグリフ、ジャック・マクダフら、ジャズ・オルガン奏者の楽曲がモッズの間で評判となり、来場客の半数をモッズ・コネクションで占めるようになった。[4] モッズ・グループのプリズナーズでハモンドオルガンを弾いていたジェイムス・テイラーは、エディ・ピラーにカルテットの結成を提案され、ジェイムス・テイラー・カルテットとしてハービー・ハンコックの「Blow Up」のカバー・バージョンを録音した[4]。 ジェイムス・テイラー・カルテットは、後に、エディ・ピラーが設立したアシッド・ジャズ・レコーズよりアルバムをリリースした[36]。 ジャイルス・ピーターソンは、アシッド・ジャズ・シーンとモッズ・シーンを区別しており、「(アシッド・ジャズと)モッズやポール・ウェラーとの共通点は、ジミー・スミスとガビッチ・ジャンパー」に限られているとの見解を示している[4]。 日本のジャズ1979年、DJであり、レコードの流通業者でもあったトニー・モンソンが、西ロンドン・ハマースミスのレコード店「フライ・オーヴァー」で日本のジャズ・ファンクとフュージョンの輸入レコードを販売する。渡辺貞夫、向井滋春、日野皓正、福村博のレコードは「ジャップ・ジャズ」と呼ばれ、[4]1枚15ポンド〜20ポンド(1980年のレートで7500円〜10000円に相当)という高値で販売されていた[37]。これらのアーティストの楽曲を、ダンカン・ユーレンやマルコム・ジェームスといった日本ジャズ専門のDJの他に、クリス・ヒル、クリス・ブラウン、ショーン・フレンチらジャズ・ファンクのDJがプレイしたことで、日本のジャズはイギリス全土で爆発的な人気となった。ポール・マーフィーは「Electric Ballroom」でDJをする際に、渡辺貞夫のアルバム『Open Road』に収録された「Felicidade」を選曲し、パトリック・フォージは、日野皓正の「Merry-Go-Round」をアシッド・ジャズの神髄であると評し、DJをする際に選曲をしていた。また、ダンカン・ユーレンのJAPANESE JAZZ CHARTでは、渡辺香津美と坂本龍一のアルバム『KYLYN』に収録された「Akasaka Moon」や中村照夫のアルバム『ルート80』に収録された「A Day In The Life Of A Frog」が選ばれている。[4] DJ/アーティスト/プロデューサー
脚注
参考文献
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