アウレリア街道![]() アウレリア街道(Via Aurelia)は、紀元前241年ごろに建設されたローマ街道で、ローマからティレニア海に沿って北西へ伸びピサに至る。当時ケンソルを務めていた C. Aurelius Cotta がプロジェクトを指揮した[1]。C. Aurelius Cotta は他にも道路建設に関わっており、第一次ポエニ戦争中の紀元前252年に執政官となり、シチリア島のAgrigentum(現在のアグリジェント)とPanormus(現在のパレルモ)を結ぶ軍用道路の建設を指揮した[2]。 背景共和政の中期、ローマの拡大による必要に迫られ、イタリア全土を結ぶ街道がいくつか建設された。これには、軍隊の迅速な移動とイタリア全土に拡大したローマ人植民地群との素早い通信を可能にするために必須だった。副次的利点として、イタリア各地の都市間の交易が盛んになった。ローマ街道は2台のチャリオットが通れるよう、15フィートの幅に規格化され、距離を示すためにマイルストーンが置かれた[3]。アウレリア街道もその一連の街道建設の1つとして建設されたもので、最初に計画的に建設されたのは紀元前312年のアッピア街道である。この時代に建設された他のローマ街道としてはアメリーナ街道(紀元前241年ごろ)、フラミニア街道、クローディア街道、アエミリア街道、カッシア街道、ヴァレリア街道(紀元前307年ごろ)、カエシリア街道(紀元前283年ごろ)がある[4]。 経路アウレリア街道はアエミリウス橋という橋でテヴェレ川を渡り、ローマから西に伸びている。アウレリアヌス帝がアウレリアヌス城壁を建設してからは(紀元270年から273年ごろ)、アウレリア街道の起点はアウレリア門(現サン・パンクラツィオ門)となった。その後道はそのまま25マイル進んでティレニア海に面した古代の町アルシウム(現ラディスポリ)を通り、そこから海岸に沿って北上しVada Volaterrana、コサを通り、ピサエ(現 ピサ)に至る。本来のアウレリア街道はピサが終点である[5]。ローマとコサとピサを結ぶこの経路は、特に共和政ローマ初期から中期にかけて重要だった。コサはエトルリアにおける重要な植民都市で軍事拠点だったし、ピサはローマのジェノヴァの間にある唯一の港だった。ピサは、リグリア人、ガリア人、カルタゴ人との戦争で重要な海軍基地となった[6]。 紀元前109年、当時の執政官マルクス・アエミリウス・スカウルスがアウレリア街道を約200マイル延長しアエミリア・スカルーナ街道とした。この街道はピサからデルトーナ(現 トルトーナ)、プラケンティア(現 ピアチェンツァ)、クレモナ、アクイレイアを通り、ジェノヴァに至る。そこからポストゥミア街道を使えば、南フランスのガリア・ナルボネンシス属州に至る[1]。ローマ帝国期には、アウレリア街道を使い、さらにアルプス越えの道を通って、北フランスやガデス(現 スペインのカディス)まで旅行することが可能となっていた[7]。 現在の国道1号線 (Strada Statale 1) は古代のアウレリア街道とほぼ同じ経路であり、アウレリア街道と呼ばれている。 脚注・出典
関連項目外部リンク
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