あの旗を撃て コレヒドールの最後
『あの旗を撃て コレヒドールの最後』(あのはたをうて コレヒドールのさいご)は、1944年(昭和19年)に東宝が製作[1]、社団法人映画配給社配給で公開された戦争映画・国策映画である。 概要比島派遣軍報道部の協力を得て長期の大規模な現地撮影が実現し、マニラ市街のロケでは米軍の残した実物の戦車や軍用車両が利用された。[要出典]撮影は1943年8月から開始し、バターン、コレヒドールでのロケ撮影の他、マニラの大手撮影所だったフィリピン・フィルムスとサンパギタ・ピクチャーズでセット撮影が行われた[3]。円谷英二と三谷栄三の特殊技術部分などは日本で撮影されている。 題名は、日本軍の砲撃を受けたコレヒドール島でなお翻り続ける星条旗に対して「あの旗を撃て」と命令が出され、狙い定めて打ち砕いた実話に基づくもの。[要出典] あらすじ1941年12月8日、大日本帝国はフィリピンへ怒涛の進撃を開始した。 混乱するマニラ上空に九七式軽爆撃機が飛来し、市街地にビラが撒かれた。 その晩、フィリピン人兵士、マリアノ・ガルシア中尉は出征の前に母に会いに行くが、弟のトニー少年か日本兵の鉄兜を戦利品に持ち帰って欲しいとせがまれる。 ガルシア中尉の友人、アンドレス・ゴメス大尉は妻ルデスに別れを告げ、前線へ向かう。 マニラから撤退する米軍を見守っていたトニー少年は、街路樹に引っかかっていた日本軍のビラに気を取られてしまい、米軍のトラックに跳ねられ足が不自由になってしまう。マニラ市街に日本軍が無血入城してきたが、市民達は警戒し外出を控える。 市街地を警備していた池島兵長は、女性の悲鳴を聞きつけ、泥棒二人を捕らえる。 一部始終を目撃した子供達は池島を尊敬し、英語で交流を深めるようになる。池島は子供達から足が不自由になったトニー少年の話を聞き、故郷に残してきた足の不自由な弟を思い出す。池島はトニー少年の自宅を訪問し、櫻木軍医中尉に手術を依頼する。 最初は警戒していたロサも次第に心を開くようになり、戦地の息子ガルシアを救うため宣撫工作に志願する。 ナチブ攻略で捕虜になったゴメス大尉は、速水部隊長、中村少尉の尋問に対し、米国に忠誠を誓うが、速水から「君はフィリピン人ではないのか」と問われ、祖国を大切にせよと論される。 バターン半島を守るフィリピン兵部隊の塹壕に、日本軍の風船からビラが撒かれる。 ビラには捕虜になった兵士が七面鳥を食べ、マニラの家族たちが平和に過ごすなど、日本軍の善行が書かれていた。戦意を削がれた兵士たちは戦いに疑問を持ち始める。 そこへ米軍・アダムス大尉らが現れ、ビラを拾った兵士たちに制裁を加え、後方へ移動させようとする。フィリピン兵と米兵が睨み合う中、脱走兵が現れ、銃殺される事件が起きる。レイエス大尉は抗議するが、アダムスは射殺は正当と答え、威圧的な態度をとる。 そこへ日本軍の謀略放送が流れ始め、アベ・マリアの曲と共にタガログ語で女性やゴメス大尉が投降を呼びかける。 池島は市民や子供達に見送られながらバターン半島へ向かう。トニー少年は涙を流し、ガルシアの母は教会で祈りを捧げる。 戦地では米軍は退却してきたフィリピン兵を地下壕から追い出そうと銃撃を仕掛け、被弾したガルシアは最後の力を振り絞り拳銃でアダムスを殺害する。 戦いが終わり、ゴメスは野中少尉に依頼しガルシアを捜索するが、既にガルシアは息絶えていた。 ゴメスは亡骸のそばに転がっていた米軍のブロディヘルメットに気付く。 鉄兜にはガルシアが弟に向けて次のようなメッセージを残していた。 「トニー、これは私が約束した敵の鉄兜だ」 ゴメスは山田上等兵と互いに日比友好を誓い合った後、別れを告げる。 コレヒドール島では砲撃戦が始まり、日本軍は夜襲上陸を敢行。九七式中戦車が蹂躙し、星条旗が吹き飛ぶ。ジョナサン・ウェインライト中将は停戦使節団を送るが、日本軍は停戦の申し出を拒絶し、全面降伏を迫る。 フィリピンの戦いは日本の勝利に終わった。最後は兵士たちが宮城遥拝する場面で締めくくられる。 キャスト日本軍
米軍将校比軍将校
比軍将校家庭(フィリピン人)[5]
スタッフ
音楽担当について本作の作曲家を選出するために音楽コンクールが開催され、山根銀二、野村光一、諸井三郎らが審査員を務めた。市川都志春が1位入選し本作の音楽を担当することとなったが、制作システムへの不慣れさなどから製作者側と作曲家側で衝突があり、ダビング段階で市川が降板した。このため、封切りに際しては「春日邦雄」なる架空の人物の名を出す形となった。海外版製作に際して早坂文雄が作曲し直している[7]。 外国人俳優について
映像ソフトその他
脚注参考文献
外部リンク |
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