渡辺 弘基基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
福岡県北九州市小倉区 |
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生年月日 |
(1947-10-26) 1947年10月26日(76歳) |
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身長 体重 |
176 cm 78 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
左投左打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1971年 ドラフト1位 |
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初出場 |
1972年 |
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最終出場 |
1979年 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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渡辺 弘基(渡邊 弘基、わたなべ ひろき、1947年10月26日 - )は阪急ブレーブス・広島東洋カープに所属したプロ野球選手(投手)。福岡県出身。
来歴・人物
日立一高では、1965年にエースとして夏の甲子園東関東予選決勝に進出。銚子商の木樽正明と投げ合うが0-9で大敗し、甲子園には出場できなかった。
亜細亜大学へ進学。東都大学リーグでは在学中に2度の優勝を経験。1年上に森永悦弘、西尾敏征(電電中国)の両投手がおり、4年生時には山本和行が台頭したため、あまり登板機会には恵まれなかった。リーグ通算22試合に登板し3勝6敗。
1969年のドラフトで東映が3位指名するも拒否し、社会人の日産自動車に入社。1970年の都市対抗に本田技研の補強選手として出場する。準々決勝に進み住友金属と対戦。河本昭人をリリーフし山中正竹らと投げ合うが、延長11回裏にサヨナラ押し出し四球を与え惜敗した[1]。
1971年、ドラフト1位で阪急に入団。監督の西本幸雄の期待が大きかったが、3年で3対2の交換トレード(大石弥太郎、白石静生←→児玉好弘、宮本幸信、渡辺弘基)で広島へ移籍。貴重な中継ぎ左腕として1975年には55試合に登板し広島初優勝に大きく貢献した[2]。特にオールスターゲーム明けの後半戦は28試合、50回1/3を投げ、防御率は0.55だった[2]。古葉竹識監督は胴上げ後に「渡辺こそ、陰のMVPだ」と語った[2]。同年の日本シリーズでも3試合に登板。翌1976年も当時のセ・リーグ最多登板記録を更新する73試合に登板する等、タフな投手だった[2]。スリークォーターからの落差の大きいカーブが武器。その後は故障もあり成績は下降し、1979年現役引退[2]。
1980年から1991年までは、広島ホームテレビの野球解説者として活動した。その一方で実業家・起業家としても名を馳せ、宝飾品関連会社を起業し、現在は広島市内でイベント企画の会社を経営している[2]。そのためか各地からの講演依頼も多い。
2006年10月6日、アマチュア指導者となるため27年ぶりに自由契約選手になった。
2009年4月18日からは広島ホームテレビの『あっぱれ!熟年ファイターズ』に2017年12月30日の番組終了までメインMCとして出演した。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1972
|
阪急
|
5 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
-- |
---- |
26 |
6.2 |
3 |
1 |
4 |
0 |
0 |
5 |
0 |
0 |
3 |
3 |
3.86 |
1.05
|
1974
|
35 |
2 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
-- |
1.000 |
225 |
54.0 |
42 |
2 |
28 |
1 |
2 |
29 |
3 |
0 |
20 |
16 |
2.67 |
1.30
|
1975
|
広島
|
55 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
3 |
1 |
-- |
.500 |
323 |
77.2 |
68 |
3 |
24 |
2 |
2 |
40 |
2 |
0 |
18 |
16 |
1.85 |
1.18
|
1976
|
73 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
3 |
5 |
-- |
.400 |
371 |
87.2 |
86 |
8 |
34 |
3 |
3 |
41 |
2 |
0 |
39 |
35 |
3.58 |
1.37
|
1977
|
39 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
1 |
-- |
.000 |
150 |
29.1 |
42 |
6 |
15 |
1 |
3 |
21 |
0 |
0 |
25 |
18 |
5.59 |
1.94
|
1978
|
33 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
1 |
0 |
-- |
.667 |
157 |
35.1 |
32 |
6 |
17 |
0 |
1 |
20 |
1 |
0 |
23 |
22 |
5.66 |
1.39
|
1979
|
9 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
40 |
9.0 |
13 |
2 |
4 |
0 |
1 |
4 |
0 |
0 |
7 |
7 |
7.00 |
1.89
|
通算:7年
|
249 |
4 |
0 |
0 |
0 |
8 |
9 |
7 |
-- |
.471 |
1292 |
299.2 |
286 |
28 |
126 |
7 |
12 |
160 |
8 |
0 |
135 |
117 |
3.51 |
1.37
|
記録
- シーズン73試合登板:セ・リーグシーズン最多登板記録(当時)、1976年10月22日の対大洋戦ダブルヘッダー第2試合に73試合目の登板で達成[3]。
背番号
- 41 (1972年 - 1974年)
- 24 (1975年 - 1979年)
出演番組
テレビ
- 過去
CM
- 一般社団法人 人生安心サポートセンターきらり(2018年3月 - )
脚注
- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ a b c d e f カープ50年 夢を追って、中国新聞社、1999年11月、P32
- ^ ベースボールマガジン社刊「広島東洋カープ60年史 HISTORY 1950-2009」53ページ
関連項目
外部リンク