Z計画Z計画(ツェットけいかく、Z-Plan)とは、1939年からドイツ海軍 (Kriegsmarine) が予定していた海軍拡張計画。 背景第一次世界大戦の終結後、ドイツ軍はヴェルサイユ条約の規定を受けるようになった。海軍では装甲艦6隻、巡洋艦6隻、駆逐艦12隻、魚雷艇12隻の保有に制限された。大洋艦隊 (Hochseeflotte) に所属していた大部分の艦艇は、スカパ・フローで自沈するか廃棄されてしまい、海軍を拡張するには新しく建造する必要があった。 経緯戦後最初に建造された主力艦は軽巡洋艦「エムデン」であった。これにK級軽巡洋艦と呼ばれる「ケルン」、「カールスルーエ」、「ケーニヒスベルク」の3隻が進水し、K級軽巡洋艦を改良した「ライプツィヒ」、「ニュルンベルク」も建造された。必要に応じて旧式となった巡洋艦の代わりを新たに建造することができるという条項があったが、それは10,000トン以下の艦艇と決められていた。そこで、ドイツ海軍は装甲艦の構想を考え出した。これは、より速い巡洋艦よりも強く、より強い戦艦よりも速く、という概念で、主に通商破壊を目的とした襲撃艦として設計され、11インチ砲6門を装備して28ノットの速度を出せるドイッチュラント級装甲艦が生まれた。ドイッチェラント級の3隻は、ドイツ以外の国からポケット戦艦と呼ばれた。 1933年にアドルフ・ヒトラーはドイツの首相となった。1935年にヒトラーは諸外国に対してヴェルサイユ条約の破棄を通告し、軍の再建を始めた。さらに同年6月18日には、イギリスとの間に英独海軍協定が結ばれた。装甲艦DとEの建造が命じられ、ドイッチェラント級の火力を上回る11インチ砲9門を搭載する「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」になり、同時にこの2隻よりも大型な軍艦の建造が研究された。最初に13インチ砲を搭載した装甲艦が計画されたが、フランス海軍の増強により新造艦は完全な戦艦として再設計された。この時、ドイツ海軍の大規模な再建が決定され、Z計画は発展することとなった。 ドイツ海軍の中で海軍拡張の方向性に関する意見が主に2つあった。1つは、将来的に最も強力な敵(イギリスとフランス)と渡り合うことができる大艦隊の整備。もう1つは、通商破壊戦用のUボートと装甲艦のような中型な襲撃艦の量産であった。このうち、後者の襲撃艦は大西洋で任務を遂行するためには北海を通り抜けなければならない点が指摘され、その時点でイギリス海軍の戦艦に阻止される可能性があった。結局、これらを排除する為に水上艦艇の整備は前提条件とされ、大艦隊の計画が選ばれた。しかし、主な建造が始まる前、戦艦「ビスマルク」と「ティルピッツ」の建造中に、重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」、「ブリュッヒャー」、「プリンツ・オイゲン」の3隻が完成し、さらに1939年から重巡洋艦2隻の建造が開始された。これらが、通商破壊艦でないことは、その比較的短い航続力にも表れている。 1936年から航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」の建造と、その2番艦が1938年に計画された。1939年中期には「ビスマルク」と「ティルピッツ」の進水により、改良されたH級戦艦3隻の建造が始まり、航空母艦に搭載させるための戦闘機メッサーシュミット Bf 109と急降下爆撃機ユンカース Ju 87の改造が命じられた[注 1]。 計画では大多数が1945年までに完成する予定であった。しかし、第二次世界大戦の勃発により大規模で費用のかかる建造プロジェクトがドイツ陸軍とドイツ空軍の戦備に不可欠な物資をあまりにも多く必要とすると判断され、結果として戦艦や空母の建造は延期となり、水上艦艇への資源は主にUボートの建造に向けられた。途中日本海軍の成功などで空母が見直された場面もあったが、結局戦局は好転しなかったため大戦の終結まで完成しない艦が多かった。 カーユス・ベッカーは著書「呪われた海」の中で海軍の「大艦隊の計画」を、結果的に「艦種のコレクション」に終わらせてしまっただけの艦政として厳しい評価を下している。 問題点ドイツの生産力では、1939年までにこれだけの艦隊を建造する事はできなかった。実際には四分の一にも達しておらず、目標の達成には少なくとも4~5年が必要だった。戦争がそこまで長引くことはないとレーダーは考えていた。ドイツの将軍の大半と同じように、その読みは間違っていた[1]。 海軍力推移ヴェルサイユ条約批准まで
開戦までの建艦計画[2]1920年代1921年度計画
1923年度計画
1924年度計画1925年度計画1927年度計画
1928年度計画
1929年度計画
1930年代1930年度計画
1931年度計画
1932年度計画
1933年度計画1934年度計画
1935年度計画
1936年度計画
1937年度計画
1938年度計画1939年度計画
1940年代
Z計画スケジュール[3]
別資料[4]によると
脚注注釈
出典参考文献
|