PZL (航空機メーカー)PZL(ポーランド語:Państwowe Zakłady Lotnicze:国立航空機製作所、等と訳される)は、戦間期におけるポーランドの主要航空機メーカーである。ワルシャワに拠点を置き、1928年から1939年まで活動した。 その後、1950年代後半になって、このPZLという略称は、同社の伝統を受け継ぐ、ポーランド国営のいくつかの航空機メーカーによるブランド名、および航空機名称の一部として使用されるようになった。それら航空機メーカーは、PZL航空機およびエンジン工業連合(Zjednoczenie Przemysłu Lotniczego i Silnikowego PZL)としてまとまっていた。 1989年に共産政権が崩壊した後、これらメーカーは独立したが、PZLの名称は引き続きそれぞれのメーカーで使われた。うち、たとえばPZLミェレッツ(en)では、PZLは「ポーランド航空機製作所」(Polskie Zakłady Lotnicze)の略であるとしている。 PZL(1928年-1939年)PZL(Państwowe Zakłady Lotnicze)は、それ以前にあったCWL(Centralne Warsztaty Lotnicze:中央航空機研究所)を基に、1928年、国営企業としてワルシャワに設立された[1]。 当初、同社ではフランスの戦闘機、ウィボー70(en:Wibault 7)のライセンス生産が行われたが、その後は自社設計の機体を専門に生産した。 1930年代に入ると、ズィグムント・プワフスキの設計による、高翼・全金属製の近代的な一連の戦闘機シリーズが生み出された。PZL P.1、P.6、P.7、P.11である。特に最後の2機種は、1933年以降、ポーランド空軍の主力戦闘機として使用された。 シリーズ最後の機体であるPZL P.24はプワフスキの航空機事故による死去の後に開発されたもので、4カ国に輸出された。 また、PZLは軽爆撃機PZL.23カラシュ(Karaś)、近代的な中型爆撃機PZL.37ウォシュ(Łoś)の量産をおこなったほか、いくつかのスポーツ機(PZL.5、PZL.19、PZL.26)、連絡機(PZL Ł.2)なども若干生産。旅客機の開発・試作も行った。 1930年代後半、PZLは、戦闘機PZL.50ヤスチョンプ(Jastrząb)、軽爆撃機PZL.46スム(Sum)、旅客機PZL.44ヴィヘル(Wicher)など、それまでよりもさらに近代的な戦闘機、爆撃機、旅客機の開発・試作を行った。しかし第二次世界大戦の勃発により、これらの機体は生産されることなく終わった。 PZLは、戦前のポーランドにおいて、最大の航空機メーカーだった。1934年時点で、主工場はワルシャワのオケンチェ地区にあるPZL WP-1(Wytwórnia Płatowców 1:第一機体工場)だった。さらにPZL WP-2(機体第二工場)が1938年から1939年にかけ、ポーランド南東部のミェレッツに建設されたが、第二次世界大戦が始まった時、この工場では生産が始められたばかりという状態だった[1]。 エンジン生産部門は、PZL WS-1(Wytwórnia Silników 1:第一エンジン工場)がやはりワルシャワのオケンチェ地区にあり、主にイギリスからのライセンス品であるブリストル社製エンジン、ブリストル ペガサスやブリストル マーキュリーなどを生産した。この第一エンジン工場は、旧称を「ポーランド・スコダ製作所(Polskie Zakłady Skody)」といい、チェコのシュコダ社の現地法人だったが、1936年に国営化され改称されたものだった。 1937年から1939年、PZL WS-2(エンジン第二工場)がジェシュフに建設された[1]。 戦後の状況第二次世界大戦中に、ポーランドの航空産業は完全に破壊され、PZL各工場も生産停止などに陥った。 戦後、共産党政府の元に再建された航空機産業は、新たにWSK (Wytwórnia Sprzętu Komunikacyjnego:交通機器工場)と命名され、PZLの名は一時消滅した。さらにソビエト連邦の影響下での中央計画経済により、およそ10年にわたって自国設計の機体が生産されることはなかった。 しかし、1950年代後半、スターリン時代の終焉とほぼ時を同じくして、PZLの名は復活することになる。1956年、複数の国営工場により、ZPLiS PZL( Zjednoczenie Przemysłu Lotniczego i Silnikowego PZL:PZL航空機およびエンジン工業連合)が結成され、新規開発の機体にPZLのブランド名を使用し始めたのである。1973年からは、若干の経済的自由も手に入れた[2]。 この連合、ZPLiS PZLは、19の工場と1つの研究所、およびペゼテル貿易センター(CHZ Pezetel、ポーランド航空産業の貿易業務を一手に引き受ける機関で、『ペゼテル』はPZLの音を表したもの)によって形成されていた[2]。1970年代には、いくつかのWSKの工場も、その名前にPZLの略称を冠するようになった。 1989年、共産党政権が倒れた後、すべての工場は独立した企業となったが、それぞれがなおもPZLの名を使い続けることとなった。 現在、戦前までPZLの中心であったかつての第一工場はPZLヴァルシャヴァ=オケンチェ(PZL Warszawa-Okęcie、ヴァルシャヴァはワルシャワの現地語表記)となっている。また、旧第二工場はPZLミェレッツとして存在するが、2007年に買収されてからはシコルスキー・エアクラフトの傘下となっている。SZDからPZL=ビエルスコ(PZL-Bielsko)と名前を変えたグライダー部門は、グライダー専門メーカーのアルスターPZLグライダー(Allstar PZL Glider)として事業を継続しており、多くの国で利用されている。 略歴
参考資料
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