1953-1954シーズンのNBA
1953-1954シーズンのNBAは、NBAの8回目のシーズンである。シーズンは1953年10月30日に始まり、1954年4月12日に全日程が終了した。 シーズン前ドラフトドラフトではレイ・フェリックスがボルティモア・ブレッツから全体1位指名を受けた。またボブ・ホーブレッグス、リッチー・リーガン、フランク・ラムジー、クリフ・ヘイガン、ジャック・ジョージ、ケニー・シアーズが指名を受けている。また地域ドラフトではニューヨーク・ニックスからウォルター・デュークスが指名を受けた。 その他
シーズンオールスター
イースタン・デビジョン
ウエスタン・デビジョン
スタッツリーダー
※1969-70シーズン以前はアベレージよりも通算でスタッツリーダーが決められていた。 各賞
シーズン概要
チーム数が8にまで減ったことで、プレーオフの方式がまたもや変更された。プレーオフは各デビジョンごとにレギュラーシーズンの勝率上位3チームによるリーグ戦(総当たり戦)が行われ、その上位2チームでファイナル進出を賭けてデビジョン決勝を争った。デビジョン決勝は3戦2勝制、ファイナルは7戦4勝制である。 ウエスタン・デビジョン
イースタン・デビジョン
ミネアポリス・レイカーズが前人未到の三連覇を達成し、5度目の優勝を飾った。1951年にロチェスター・ロイヤルズに阻まれなければ、6連覇の可能性さえあった。 レイカーズは30歳を迎えたジョージ・マイカンが故障箇所を多く抱えるようになり、数字の面ではやや衰えを見せ始めていた。レギュラーシーズンの平均得点は初めて20得点を下回り、18.1得点14.3リバウンドの成績だった。しかしそれでもマイカンは十分支配的なセンターであり、チームをリーグ最高勝率に導いた。また前季のドラフトで指名し、今季からチームに合流した206cmのセンター、クライド・ラブレットがプレーオフに入って大活躍した。 イースタンでは3年連続ファイナルに進出し、このシーズンもデビジョン首位に立ったニューヨーク・ニックスがプレーオフのリーグ戦まさかの4戦全敗を喫し、早くも姿を消した。プレーオフはシラキュース・ナショナルズが勝ち進んだが、その過程で故障者が続出し、マスコミは彼らを「Bandage Brigade(包帯部隊)」と呼ぶようになった。 ファイナルは包帯部隊を王朝レイカーズが一蹴するだろうと予想されたが、シリーズは意外にも第7戦までもつれ込んだ。第6戦では63-63の同点で迎えた第4Q残り4秒、NBAでは80試合しかプレイしなかったジム・ニールが決勝シュートを決め、65-63でナショナルズが勝利し、シリーズは第7戦へと突入した。しかし傷だらけのナショナルズは第7戦でついに力尽き、レイカーズが序盤に奪ったリードを一度も譲ることなく87-80で勝利した。 マイカンの引退とレイカーズ王朝の終焉NBAの初代王朝を築いたレイカーズは、この優勝が1950年代最後の優勝となった。このシーズン終了後、レイカーズの心臓であったジョージ・マイカンが突如引退を表明し、世間を驚かせた。マイカンは未だリーグのトップ選手であったが、すでに肉体は悲鳴をあげていた。マイカンはNBLを含め、計7回の優勝を手にNBAから去ることになった。マイカンの去ったレイカーズは初代王朝の終焉期を迎えるが、すぐに再興に成功する。しかし次の絶頂期はボストン・セルティックスの絶頂期とも重なってしまい、レイカーズが次に優勝を手にするまで18年を待たなければならない。 ラストシーズン
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