黒田勝弘
黒田 勝弘(くろだ かつひろ、1941年(昭和16年)10月25日 - )は、日本の新聞記者、作家、コラムニスト。共同通信にてソウル支局長や東京本社外信部デスクを歴任、現在は産経新聞ソウル駐在特別記者(ソウル支局長特別記者)兼論説委員である[1]。旧名は勝博。 来歴大阪府大阪市出身。第二次世界大戦中は鹿児島県に疎開し、小学2年生の時に大阪へ戻る。四貫島小学校時代は学校新聞の記者を務めた。我孫子中学校、大阪府立天王寺高等学校に進学し、高校卒業後の1960年(昭和35年)4月、京都大学経済学部に入学[2]。 1964年(昭和39年)、京大卒業後の4月、共同通信社に入社。新人研修後の1965年(昭和40年)4月から、広島支局で4年間勤務。1969年(昭和44年)、東京本社社会部へ異動となり、公安部担当を経て、1978年(昭和53年)から1年間、韓国の延世大学校に社費留学制度で語学留学[2]。 1980年(昭和55年)から1984年(昭和59年)までソウル支局長。1984年(昭和59年)に東京本社外信部デスクとなる[2]。同時に、1986年(昭和61年)から1988年(昭和63年)まで、NHKワールド(朝鮮語)解説者を担当する。産経新聞ソウル支局長への誘いを受け、共同通信社退社後の1988年(昭和63年)に産経新聞社に移籍。1992年(平成4年)、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞[3]、2005年(平成17年)、ソウル駐在22年の実績を評価し、日本記者クラブ賞を受賞。 2002年(平成14年)から、ソウル特別市にある西江大学校で講師の資格で「日本文化の理解」という名称で講義を行っていた(2003年(平成15年)より兼任教授)。しかし、2005年4月に、就労ビザを取得せず、記者の身分のままで勤務していた事が発覚。韓国出入国管理法違反(資格外活動)で、大学ともども罰金を課された[4]。 同年、日本記者クラブ賞及び第53回菊池寛賞受賞[5][6]。 2011年(平成23年)10月までソウル支局長。同年11月1日より特別記者兼論説委員[7]となる。2008年(平成20年)4月より、KBSワールドラジオ日本語放送にも出演中[8]。 また、ソウルジャパンクラブ(SJC:ソウル日本人会)顧問[9]。両親が鹿児島県出身のため、ソウル薩摩会会長を務める[10][11]。また、在韓日本人の京都大学卒業生で構成する「ソウル洛友会」[12]の会長も務める[13]。 人物『産経新聞』国際面コラム「ソウルからヨボセヨ(もしもし)」を担当し、日韓関係に関する著書も多い。 大韓民国では、かなりの有名日本人で、韓国の小説『皇太子妃拉致事件』[14]では実名で登場している。黒田の論評を「妄言」として批判することが多い韓国メディアだが、主に『朝鮮日報』などの保守系メディアでは、日韓二国間の政治・歴史等以外の話題では、黒田の見解を肯定的に取り上げることも少なくない。 黒田の韓国に対する論評は、主に北朝鮮・韓国の朝鮮民族の歴史と文化を紹介しつつ、民族主義を婉曲に批判するような論調で知られる。同時期に朝鮮語を学習・習得した仲間に作家・豊田有恒がおり、豊田との友誼は深い。 韓国の文化を敬愛しており、「ソウル勤務は二度泣き」と評価するほどで[15]、韓国暮らしを「反日ニュースさえ見なければ、こんなに楽しいところはないのだが」と紹介している[16]。韓国の食文化を日本に紹介するのにも熱心で、犬肉食を日本に個人輸入して食べる方法などを『産経新聞』や『SAPIO』で紹介したこともある。 論評「反日」ナショナリズムには、批判的な論陣を張り、常に韓国マスコミの「反日」報道を批判している。また、その発言は韓国のマスコミ、インターネット等で「妄言」として激しい非難を浴びることが多い[17][18]。 日本の保守の主張に肯定的であるため、韓国内でも「日本の代表的極右言論人」と呼ばれて、韓国マスコミで度々非難の的になっている[19]。しかし、最近では[いつ?]韓国マスコミの日本に対する関心の比重が少なくなったため[20]、黒田の名が登場するのは「靖国神社問題」など、韓国内で熱狂的な「反日」ムードが高まった際に「日本の保守右派の主張」として槍玉に挙げられる場合となっている。 下川正晴は、1980年代以降、日本におけるコリア報道を主導したのは毎日新聞の重村智計と黒田であり、現実ウオッチングに基づくコリア報道の先駆者だと評している[21]。 著作単著
論文共著
編著
監修
出演番組
脚注
関連項目外部リンク
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