鹿島天足和気神社
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は、宮城県亘理郡亘理町にある神社である。 旧社格は郷社。亘理郡延喜式式内社四座のうちの一座である。 祭神
由緒由緒書によると、景行天皇41年(111年)8月6日、日本武尊により現在の鎮座地の北にある神宮寺地区字ヲフロの三門山へと勧請されたと伝わる。桓武天皇の御世である延暦元年(782年)の5月朔日に祈祷を行ったところ、鹿島の神が凶賊討伐に神験を示したことから勅命により勲五等封二戸が与えられた。清和天皇の御世の貞観4年(862年)壬午6月15日に官社に列し「鹿島宮」と称するようになり、同年同月18日には従四位上が授けられた。天慶4年(941年)に鹿島地区字北鹿島の樫木山の山頂に遷座し、その後、領主から神領寄付などがあったが、天正時代(1573年-1591年)に起きた伊達氏と相馬氏の戦乱の影響で神領地が廃絶した。貞享3年(1686年)4月6日、亘理伊達家5代当主の伊達実氏が現在の地に社殿を再建した。 荒浜地区の川口神社の宮司が明治時代に記した「亘理郡神社明細帳」によると、崇神天皇の五世の孫である鹿賀別王の嫡孫の三品掃部輔物部朝臣正隆が亘理に下り、亘理郡に鎮座する延喜式式内社である鹿島三社(鹿島天足和気神社、鹿島緒名太神社、鹿島伊都乃比気神社)と安福河伯神社の神司職を蒙った。なお、鹿賀別王は「国造本紀」によれば、浮田国造として陸奥国宇多郡を統治していたという。 明治5年11月に神司職を免し、祠官職(県社・郷社の神職長)を拝命。現在も三品家が社家として奉斎している。 亘理鹿島三社亘理郡には式内社が四座鎮座している。そのうち鹿島天足和気神社、鹿島緒名太神社(亘理町逢隈地区小山)、鹿島伊都乃比気神社の三座は、茨城県の常陸国一之宮である鹿島神宮と関係の深い神社である。現在は鹿島天足和気神社と鹿島緒名太神社は現存している。これらの鹿島神社三社のうち、鹿島天足和気神社と鹿島緒名太神社は、「三代実録」に記載されている「陸奥国に鎮座する鹿島大神苗裔を祀る三十八の神社」のうちの二社とされている。 鹿島伊都乃比気神社とされる小祠は、以前は吉田地区作田の民有地内にあり、社殿は三尺四面のものだった。郡民により篤く尊崇されており、祭神が軍神のため、特に戦時中は多くの参拝者が武運長久や出兵者の安全を祈願しに詣でたという。しかし、時代とともに社域などが荒廃衰微したため、明治43年2月8日に同地区の月山神社(祭神:月讀命)に合祀された。
鹿島天足和気神社には、相殿神として左殿には鹿島伊都乃比気神社の祭神とされる稜威雄走神、右殿には鹿島緒名太神社の祭神とされる猿田彦命が祀られており、首座神の武甕槌神を祀る鹿島天足和気神社は亘理鹿島三社の総社として機能している。 社伝や宮司の話によれば、鹿島天足和気神社の相殿神として鹿島緒名太神社と鹿島伊都乃比気神社を合祀しているのは、日本武尊が三門山に鹿島天足和気神社を創建した当時は三座を一社にまとめていたためということである。その後、鹿島天足和気神社は平安時代に北鹿島地区に遷座し、江戸時代に現在の鎮座地へと再遷座した。他の二社もそれぞれ、鹿島緒名太神社は逢隈地区小山へ、鹿島伊都乃比気神社は吉田地区作田へと遷座したという。 鹿島天足和気神社の北東の北鹿島地区に鎮座する八雲神社の本殿南側には、三門山に祀られていた当時の鹿島神社の石祠が鎮座している。この石祠は、神宮寺地区の崇敬者が三門山から背負って八雲神社へと運んできたものだと伝わる。
境内
脚注参考文献
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