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艦歴
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計画 |
明治30年度計画[1]
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起工 |
1902年10月4日[1]
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進水 |
1903年12月21日[1]
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就役 |
1904年3月22日[1]
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除籍 |
1923年4月1日[1]
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その後 |
1923年4月1日雑役船編入、曳船兼交通船指定[1]
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廃船 |
1925年2月14日[1]
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売却 |
1926年3月4日[1]
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性能諸元
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排水量 |
常備:152トン
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全長 |
垂線間長:45.00m (147ft 7in 11/16)
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全幅 |
4.91m (16ft 1in 7/16)[2]
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吃水 |
1.45m (4ft 9in 3/32)
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機関 |
ノルマン式缶2基 直立式3気筒3段膨張レシプロ2基 2軸 4,200馬力
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速力 |
28.5ノット[3]
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航続距離 |
10ノットで2,000海里
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燃料 |
石炭:28.5トン(満載)
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乗員 |
30名
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兵装 |
4.7cm保式単装軽速射砲3基(推定) 45cm水上旋回式発射管3基
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鷺(さぎ[4])は、日本海軍の水雷艇で、隼型水雷艇の11番艇である。同名艇に鴻型水雷艇の「鷺」があるため、こちらは「鷺 (初代)」や「鷺I」などと表記される。
艦歴
発注時の艇名は第十二号百二十噸水雷艇[4]。1901年(明治34年)12月18日、鷺と命名[4]。1902年(明治35年)10月4日、呉海軍造船廠で起工[1]。同年10月31日、水雷艇に編入され等級一等となる[5]。1903年(明治36年)12月21日に進水し、1904年(明治37年)3月22日に竣工。
日露戦争では旅順口攻撃に参加[1]。1905年(明治38年)5月27日、日本海海戦に第十五艇隊に所属し夜戦に参加したが、第十艇隊司令艇「第四十三号水雷艇」と衝突し、その艇首を破損させた[6]。
1923年(大正12年)4月1日に除籍され[7]、同日、雑役船に編入となり、曳船兼交通船に指定され横須賀海軍工廠機雷実験部所属となる[1][6]。1925年(大正14年)2月14日に廃船となり、1926年(大正15年)3月4日に売却[1][6]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」27頁。
- ^ 4.91mは『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表の値をメートル換算した値。『世界の艦船 増刊第47集』によると4.90m。
- ^ 『世界の艦船 増刊第47集』による。『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表によると29ノット。
- ^ a b c #海軍制度沿革(巻8、1940) 390頁。◎「水雷艇鷺外四隻命名ノ件」明治三十四年十二月十八日(達一七一) 新造水雷艇ニ左ノ通命名ス | 呉海軍造船廠ニ於テ製造 | 第十二號百二十噸水雷艇 鷺 サギ〔以下略〕。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 63頁。◎明治三十五年十月三十一日(達一〇〇) 軍艦及水雷艇類別等級別表中驅逐艦ノ欄内ニ「春雨」ヲ、水雷艇一等ノ欄内ニ「鷺、鶉、鷗、鷂、鴻」ヲ、同二等ノ欄内ニ「第七十二號、第七十三號、第七十四號、第七十五號」ヲ加フ。
- ^ a b c 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、490頁。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 79頁。◎大正十二年四月一日(達七一) 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「敷島、朝日、須磨、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雲雀、鷺、鶉、鷂、第七十二號、第七十三號、第七十四號、第七十五號」ヲ削ル。
参考文献
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 中川努「日本海軍特務艦船史」
- 『世界の艦船 増刊第47集』海人社、1997年3月号増刊、第522集。