鷹司信熙鷹司 信熙(たかつかさ のぶひろ、1892年(明治25年)1月7日 - 1981年(昭和56年)1月15日)は、日本陸軍の軍人、華族。最終階級は陸軍大佐。男爵。 経歴東京都出身。公爵・鷹司煕通の二男として生まれる。1905年(明治38年)12月、分家し男爵を叙爵。陸軍中央幼年学校予科、同本科を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。 1921年(大正10年)7月、近衛野砲兵連隊中隊長に就任。陸士本科教官に転じ、1928年(昭和3年)8月、砲兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)8月、野戦重砲兵第8連隊付となる。以後、近衛野砲兵連隊大隊長、砲工学校教官を歴任。1933年(昭和8年)8月、皇族付武官・北白川宮永久王付に就任。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進級。 1936年(昭和11年)8月、陸軍野戦砲兵学校教官となり、1937年(昭和12年)12月、野戦重砲兵第7連隊長に就任。1939年(昭和14年)3月、砲兵大佐に昇進。ノモンハン事件に出動。事件後、その引責として1939年9月30日に停職・男爵礼遇停止の処分を受けた。同年12月、諭旨・予備役編入となった。 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)8月に召集され、名古屋陸軍造兵廠監督官を務めた。 戦後、公職追放となり[1]、1951年に追放解除となった[2]。 親族
脚注・出典参考文献
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