高須峯造高須 峯造(たかす みねぞう、1858年5月8日(安政5年3月25日[1][注釈 1])- 1934年(昭和9年)5月14日[1][2][3])は、明治から昭和初期の日本の弁護士・実業家・政治家。衆議院議員。 経歴伊予国越智郡、のちの愛媛県[2]越智郡近見村[1][3]を経て現今治市[1])で、農業・高須吉一郎の四男[注釈 2]として生れた[1]。農業を手伝い、漢学塾で学ぶ[1]。1878年(明治11年)大阪の難波学舎で学び[1]、1879年(明治12年)慶應義塾に転じ政治学、経済学を修め[1]、1882(明治15年)に帰郷[1]。代言人(弁護士)となった[1][2][3]。 1883年(明治16年)愛媛県会議員の越智郡選出議員の欠員により繰上当選し、以後、連続3期在任した[1]。当初、代言人の藤野政高と親交を持ったが、藤野らが松山士族中心の党派形成を行ったことに反発し、小林信近、井上要らと改進党の組織を設け、井上とは共同法律事務所を設置するなど、終生親交を保った[1]。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(愛媛県第2区)で当選し[1][4]し、衆議院議員に1期在任したが[2][3]、その後、第4回総選挙まで連続で落選したため[4][5]、政界の第一線から身を引いた[1]。その後、『愛媛新報』の編集者も務め、1904年(明治37年)同社長となる[1]。1913年(大正2年)立憲同志会が結成され同愛媛支部長となり、同会が憲政会に改組されると同愛媛支部長を務めた[1]。経済界では、愛媛鉄道社長、松山瓦斯社長、久万索道社長、松山米穀取引所理事長などを務めたが、経営状況は思わしくなかった[1][2][3][6]。 1918年(大正7年)還暦となり弁護士を廃業し企業役員を退任して[1]、普選運動に加わり[1]、1919年(大正8年)愛媛県普通選挙期成同盟会の結成に参画した[1]。1921年(大正10年)普選運動機関紙『四国毎日新聞』を発刊したが3ヶ月で廃刊となった[1]。武藤山治の実業同志会愛媛支部長を務め[1]、1924年(大正13年)5月の第15回総選挙(愛媛県第1区)で選挙運動を行ったが落選した[1][7]。 その後、社会主義運動に関心を寄せ[1]、1928年(昭和3年)2月、第16回総選挙(第1回普通選挙、愛媛県第2区)で小岩井浄を応援したが落選した[1][8]。このため、当局の監視下に置かれ[1]、経済的にも困難となり[1]、自宅を売却し[1]、同年8月、長男のいる神戸に転居[1]。1934年9月、横浜市鶴見区の居宅で死去した[1]。 国政選挙歴
脚注注釈出典参考文献 |