高橋貞夫
高橋 貞夫(たかはし さだお、1883年(明治16年)3月14日[1] - 1954年(昭和29年)12月29日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴・人物東京府出身[1][2]。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業[1][3]。 1924年(大正13年)2月に陸軍造兵廠東京工廠小銃製造所長に発令され、1925年(大正14年)8月に陸軍砲兵大佐に進級[2]。ついで、1928年(昭和3年)3月に陸軍技術本部附(米国駐在官)、1930年(昭和5年)4月に陸軍技術本部部員を経て、同年8月に陸軍少将に進み、陸軍技術本部第3部長となる[1][2]。 その後、1932年(昭和7年)8月に陸軍造兵廠東京工廠長、1933年(昭和8年)11月に陸軍造兵廠小倉工廠長を経て、1934年(昭和9年)8月に陸軍中将に進級し、1935年(昭和10年)8月に陸軍兵器本廠長を経て、1937年(昭和12年)8月2日に待命、同月22日に予備役に編入した[1][2]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。 栄典
脚注参考文献
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