高橋義治
高橋 義治(たかはし よしはる、1916年(大正5年)6月6日 - 1986年 (昭和61年)7月16日)は、日本の実業家。全国朝日放送(テレビ朝日)取締役[1]、イ・アイ・イグループ(EIE)代表取締役会長[1][2]、慈悲庵、まどか保育園各理事[3]等を務めた。 戦後のモノ不足の時代に輸入物資を売りさばいて財を築いた[2]。いくつかの事業を手がけた後に、日本教育テレビ(NET)の設立に関わり、取締役に就任した[2]。電通顧問の高橋治之、イ・アイ・イグループ代表の高橋治則は息子。 来歴・人物長崎県・高橋猪之助の長男[3]。高橋家は江戸時代、平戸松浦藩の藩士だった[4]。 法政大学経済学科卒業[3]。戦前はいわゆる満州浪人で[5]、1941年(昭和16年)東満洲産業秘書課を経て、鉄鋼原料統制会に勤務する。 NET入社1946年(昭和21年)東洋物産常務[3]、1952年(昭和27年)SKB鉄砲販売常務となる。その後、映画、放送の業界紙『中央通信』を始め[5]、東映系の人間として、1957年(昭和32年)日本教育テレビ創立事務所に入社。技術部長を手始めに、開局時には総務局次長として資材関係を仕切る[5]。社長の赤尾好夫とは、鉄砲、狩猟仲間で親しくなった[5]。義治はコンバータ(UHFコンバータ)の特許を持っていて、北海道テレビ放送(HTB)社長の岩澤靖(次男・治則の岳父)と組んで、製造・販売し大儲けした。コンバータは、「SI(シングル・イワサワ)」と名付けられ、岩澤グループ社員が大量動員され、広大な北海道で売りまくる取り付け作戦を展開した[6]。 1968年(昭和43年)11月、岩澤のHTBはNETをキー局にU波の第1号局として、本放送を開始するが[7]、弱小ネットのNETにとっては2局目のフルネットとなり大きな橋頭堡となった[7]。この功績から取締役に選任され[3][7]、コンバータで一財産を築き羽振りがみるみる良くなり[7]、NETに勤めていながら数寄屋橋に個人事務所も構えた[5]。 EIE社長技術、業務関係の局長を務めていた時、NETにテープを納めていたのが、EIEだった[8]。ところが、この会社は景気が悪くて、にっちもさっちも行かなくなって、義治にやってくれないかと頼んできた[8]。相談を受けた長男・治之は、「治則が政治家になるためにビジネスをすると言っていたから、2人でやったら」と返事をした[9]。1977年(昭和47年)3月、EIEの社長に義治、副社長に治則が就任した[8]。ほかに高級リゾート「ベルハンドクラブ」社長を務めた[1]。 家族・親族高橋家→詳細は「高橋治則 § 家族・親族」を参照
親戚
脚注
参考文献
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