髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 1976年1月13日)は日本の歌人、郷土史家。
経歴
神奈川県藤沢生まれ。東洋大学専門部倫理学東洋文学科卒業。埼玉県(浦和中学校)、三重県(桑名中学校、津高等女学校、富田中学校)、東京都(山脇学園)、神奈川県(藤沢中学校・高等学校[注釈 1])などの中学校・高等学校の教諭を歴任[1][2][注釈 2]。
大正末年、若山牧水の短歌結社「創作」に参加。一方、1928年、埼玉県立浦和中学校の学生とともに「菁藻」を創刊(1942年「創作」に合併)、加藤克巳[注釈 3]、常見千香夫らを育てた[注釈 4]。
1952年には藤沢市を拠点に、平井啓朔、河口一紀らと「まゆみ」を創刊。そのかたわら、藤沢市の依嘱により郷土史研究に従事。「藤沢に縁ある文人たち」「湘南湮沈伝」「藤亭札記」「畊餘塾の諸先生」「毛利竹坡について」「渡辺伝七翁小伝」などの成果は、藤沢市図書館発行の「わが住む里」に発表された[注釈 5]。また、郷土史研究の業績としては、四日市港を近代港湾にした功労者・稲葉三右衛門の生涯を描いた『筑港の偉傑 稲葉三右衛門』がある[3]。
藤沢市の遊行寺(藤沢山無量光院清浄光寺)に「感傷も今宵はよろし開山忌 あがなひてもつ葡萄の房を」(『杖家集』所収)の歌碑がある[注釈 6]。主な歌集に『寒食(かんじき)』『杖家集』『壺中天』。没後、随筆集「しろうるり」が編まれる。鎌倉市植木の久成寺に眠る。
植物育種学者の髙橋成人は長男。弟の髙橋希人、孫の髙橋みずほ、その夫の吉野裕之はいずれも歌人。
著書
- 歌集『寒食(かんじき)』 菁藻社、1934年
- 『短歌初歩』 菁藻社、1936年
- 『筑港の偉傑 稲葉三右衛門』 日本出版社〈近世日本興業偉人伝4〉、1943年
- 歌集『杖家集』 まゆみ社、1959年
- 歌集『壺中天』 まゆみ社、1972年 (歌集『壺中天』は歌集『清明集』と2冊セットになった書籍)
脚注
注釈
- ^ 同校では文芸部の顧問として「藤嶺文学」を編集。なお、1960年頃に部員の減少により廃刊となったが、2006年10月、髙橋の没後30年追悼記念号として復刻版が刊行された。(「藤嶺藤沢物語4-時を超える短歌の響き」『かまくら春秋』第447号、2007年。)
- ^ 最終は藤沢高等学校の教頭。(小山文雄編著『個性きらめく-藤沢近代の文士たち』 藤沢市教育委員会、1990年。)
- ^ 浦和中学校時代の加藤克巳の作品や髙橋との関係については以下に詳しい。髙橋みずほ「壁の「だるま」-少年克巳の手紙から」『合歓』第42号(2008年10月)。
- ^ のちに小説家となる澤野久雄や東京大学教授となる岡田希雄なども髙橋のもとで短歌を学んだ。(村瀬俊夫「「しろうるり」によせて-親愛なる銀杏の会の諸兄へ」『銀杏』別冊第1号、2008年。)
- ^ 「わが住む里」第2号(1950年)から第21号(1970年)(第20号を除く)に発表された。なお、第16号より発行は藤沢市中央図書館。
- ^ 遊行寺は髙橋が教鞭をとった藤沢中学校・高等学校の母体である。歌碑は没後計画され、一周忌を迎える1976年1月16日に除幕式が行われた。村瀬俊夫はこの一首について、「葡萄の一房を手に持って、幼き日への感傷に耽るのも、開山忌の今宵ならば許されようという歌意は、遊行寺が藤沢びとの心の拠り所であることを示した、愛郷の調べ」と鑑賞している。(村瀬俊夫「「しろうるり」によせて-親愛なる銀杏の会の諸兄へ」『銀杏』別冊第1号、2008年。)
出典
- ^ 西羽晃「連載 桑高百周年シリーズ13/宮地雄吉と高橋俊人」『まちのかわらばんIT』8号(2008年9月号)。
- ^ 志水雅明『発掘 街道の文学2』 伊勢新聞社、2004年。ISBN 978-4900457881
- ^ 志水雅明『発掘 街道の文学 四日市・楠編』 伊勢新聞社、2002年。 ISBN 978-4900457843
外部リンク