駒競行幸絵巻駒競行幸絵巻(こまくらべ・ぎょうこう・えまき。以下「駒競」とする。)は、『栄花物語』巻二十三「こまくらべの行幸」(以下「こまくらべ」とする。)の前半部を絵巻化したものである。13世紀後半から14世紀初頭制作とされる(#絵師と注文主)。 完本は現存せず、静嘉堂文庫美術館と和泉市久保惣記念美術館に、零本(部分的に残ったもの)各一巻(以下、静嘉堂本・久保惣本と記す。)が分蔵され、共に重要文化財に指定されている[注釈 1]。両者は、画風や物語の内容から、同じ巻が分割されたものと考えられる[2][3][4][5]。 それ以外に、断簡[注釈 2]と、江戸時代後期の、静嘉堂・久保惣本及び「断簡」には現存しない箇所を含む、摸本二巻が現存する(#断簡5葉#狩野養信による復元摸本)。 「こまくらべ」のあらすじ9月19日、関白藤原頼通の「高陽院」にて駒競(競馬)が行われることになり、後一条天皇が行幸、大宮彰子(藤原道長の長女、頼道の姉で、後一条天皇の母、一条天皇の后。)と東宮(後一条天皇の弟で、後の後朱雀天皇。)が行啓された。翌20日には後宴が行われ、和歌が詠まれた。10月に入り、中宮威子(道長の四女、頼道の妹で、後一条天皇の后。)は多宝塔供養を行った。11月に道長は長谷寺に参詣した[7][8]。 駒競の現存箇所現存する静嘉堂本と久保惣本の画は、9月14日夜の中宮行啓(#静嘉堂本)、19日の東宮行啓、寝殿に参集した貴人と舟遊び(#久保惣本)までで、先に述べたあらすじの内、駒競以降の絵は現存しない(#久保惣本)。 静嘉堂本は巻頭部が焼損しており、その為か色味がすくんでいる。対して、久保惣本は鮮やかな色彩を保ち、高価な顔料の使用が窺える[2][9][10]。 詞書(ことばがき)は、久保惣本の「おなし月の十九日 こまくらへせさせ給…関白とのゝ御下襲菊のひへき[注釈 3]かゝやきて めとゝまりたり」一段二紙33行のみで、静嘉堂本に詞書は無い[12]。 場面解説静嘉堂本大宮彰子の行啓を描く(図2.)[注釈 4]。9月14日の夜、高陽院の門前には一輛の牛車が止まり、松明を持つ従者が居る。門をくぐると、貴人、随身、供人が控える。その奥に檜皮葺の重厚な中門があり、中にはさらに多くの人々がいる。そして庭内の橋を渡り、大宮を乗せた、金字に黒で小葵文様を表した豪華な葱花輿が、30人ほどの丹色の上衣を着た従者に担がれ、寝殿南側の階(きざはし)に到着するところである。階の先には簀子があり、両側を屏風で覆っており、その先は御簾で室内を隠している[14][15]。 久保惣本静嘉堂本に引き続き、9月19日午前10時頃の東宮行啓、及び寝殿と庭園、貴人たちを描く。詞書の後、門前の通りは貴賤で大賑わいである。白緑[注釈 5]の絹地、及び車輪と轅に宝相華文様が散らされた牛車(唐庇車)があり、10人の曳き手が轅を支える。後部に黒漆塗りの台榻を持った者が居り、東宮がたった今、下車されたのが分かる[18]。黄金色を帯びた大ぶりの牛[注釈 6]は、軛から放たれている(図4.参照)[注釈 7]。 塀沿いには枇榔で編んだ白地の牛車(檳榔毛車)が二輛並んでいる(図3.参照)が、東宮のそれと比べると、官位の違いが分かる[注釈 8]。 門をくぐると、黄丹袍を召した東宮が、裾の先を太った公卿に持たせ、筵道を進む。邸内に紛れ込んで来た一家を、随身が弓で威嚇し、追い出そうとする[注釈 9]。東宮が進む先には霞がかかる[23][24][注釈 10]。 霞の先には寝殿南側と池が一望出来る。寝殿母屋には大床子[注釈 11]とそこに坐した後一条天皇が描かれている。容貌は描かず[27]、膝より上部を紙端で切っている(図7.参照)。向かって右側には上げ畳上に茵を敷いた上に、到着したばかりの東宮が座っている。筵道上で持たせていた裾は折りたたんでいる(図6.参照)[28]。 寝殿周りの簀子にも畳が敷かれ、公卿ら9名が描かれている[29][28]。久保惣記念美術館々長の河田昌之は、階の向かって右が、主の左大臣頼通[注釈 12]、向かって左の高齢人物は右大臣藤原実資と見なす(図7.参照)[32]。彼らは裾を勾欄(欄干)に掛け、「はれの日」にのみ許された、個々に異なる染下襲を見せている[33]。袍の文様や、人物も上述の頼道と実資のように、若壮、髭の有無や、武官の矢や緌[34]を描くことによって、個人を識別できるようにしている[28]。 帝と東宮がまします母屋の左右は、簾に覆われ、その下から女房装束である五色の打出の衣[注釈 13]を覗かせる[36][37][38]。寝殿の前の池には、橋が架けられ[注釈 14]、橋の手前には船楽用の大太鼓と鉦鼓が据えられ、池には向かって右には龍頭、左には鷁首の舟が浮かぶ(図8.参照)[42]。 それぞれに櫓を漕ぐ童四人と、太鼓・鉦鼓・笙・横笛・篳篥[43]の奏者が乗る。 両舟の間には、寝殿と渡殿でつながる西対があり、そこから池に檜皮葺の釣殿(図5.の左端)が張り出す[44]。 寝殿と池の間にある庭には、桜・松・楓・菊[45]が植えられ[注釈 15]、鶴(図9.参照)亀形が置かれる[46][47]。 檜皮葺の先には、またしても邸に紛れ込んだ夫婦と子供を追う従者がいる。絵巻の現存箇所はここまでとなる[48]。 断簡5葉静嘉堂本・久保惣本以外の断簡は、5葉が確認されている[49][50][51][52][53]。
これら5葉は、幅が32.5 cm前後であり、いづれも色が褪せ、水をかぶった形跡があり、元は一巻であった可能性がある[62][55][52]。また、前2者は久保惣本と重複した内容であり、その点から、この断簡群と静嘉堂・久保惣本は、別の系統と言える[63]。 その中で、メトロポリタン本(図10.)と久保惣本(図3.)を見比べると、塀外の枇榔毛車横で烏帽子をかぶった男二人は、メトロポリタン本だと一人になっている[55][64]。 両者の関係について、梅津次郎は、先行する田中一松と水尾博の意見[65][66]に賛同し、「系統的な前後関係よりも、むしろ、両本に共通の祖本の存在を、想定すべき」と纏める[62]。対して上野憲示は、上述の久保惣本とメトロポリタン本を比較し、前者に比べ後者は、上述した烏帽子男の描き忘れだけでなく、線に描写の破綻が見られ、上げ写し[注釈 17]ではなく、臨写[注釈 18]に見られる「写しくずれ」であるとし、断簡は久保惣本の「忠実な写し、それも制作時期を南北朝期までさかのぼらせうる良質の転写本」と推察する[70]。河田昌之は上野説を支持し、「作風から久保惣本、静嘉堂本とは製作年代の下る別本とみられる。」とする[71]。 狩野養信による復元模本狩野養信は徳川幕府お抱えの絵師として、江戸城内の障屏画制作の指揮を執る立場だったが、職務とは別に、和漢古画の模写を多く為した。その中で絵巻物が一定数を占め、徳川幕府から明治政府、そして帝室博物館(のちの東京国立博物館)に移管された資料だけでも150巻近くある。そしてその中に「駒競」模本も存在した(図13.東京国立博物館蔵。全二巻。「補定駒競行幸絵詞」と題されるので、以下「補定本」とする)[72]。 養信の時代にて、「駒競」は既に完本では無く、養信所蔵の断簡原本・摸本だけでなく、狩野友川(1778-1815)・狩野探信ら所有の断簡も借用して写し、往時の絵巻復元を試み、1830年(文政11年)、2巻に纏められた。その中には、静嘉堂本・久保惣本及び断簡5葉にも含まれない、「こまくらべ」の中心題材である、競馬の場面が含まれている(図13.)[73]。 20世紀の絵巻復元案ここまで述べた、静嘉堂本・久保惣本、5断簡、補定本、及び「こまくらべ」テキストから、上野憲示と小松茂美が、在りし日の絵巻復元案を提示した[74][51][75]。巻頭から順に列挙する。
ここまでで1巻終了とする。合わせて24紙、約1236センチメートルと、絵巻一巻の平均的な分量となる[78]。 絵師と注文主絵巻に絵師を示す記載は無い。明治時代には、平安時代末期の常盤光長と見なす説もあったが[79][80]、昭和時代初頭には高階隆兼説が有力となっており[81]、アジア・太平洋戦争終結以降では、1.定規引きを駆使した精密な建築描写、2.明晰な空間の把握、3.濃密な彩色、4.衣装に多用された彫塗技法[注釈 21]といった特徴[83]が、春日権現験記のそれに通じるゆえ、高階隆兼工房による、13世紀後半から14世紀初頭の制作説が、異論なく受け入れられている[84][85]。 詞書については、河田昌之は「太くて平坦な線を連ねた大振りの文字」「明快で強さを湛えた書風」[71]と評し、小松茂美は久保惣本一段分と摸本を含め、「法性寺流の著しい影響を受ける書風」とし、13世紀半ばの制作と見なす[86]。 注文主として、河田昌之は、「春日権現験記」を春日大社に奉納し、「摂関家をしのぐ地位にあった」左大臣西園寺公衡を想定している[87]。 評価小松茂美は、寝殿 ・楽船・装束・牛車・輿等、有職故実の研究資料として有益であると言及する[86]。 宮次男は、久保惣本を「色彩も美しく優雅絢麗(けんれい)の一語につきる」と例える[10]。 秋山光和は、約200年前に記された『栄華物語』を絵画化するにあたり、後白河法皇が制作を命じたと思われる『年中行事絵巻』を参考にしただろうと論ずる[88]。 河田昌之は、「製作を企画した人物、高い技倆の絵師を見近に置いていた人物の意図を超え、公家文化の特質を受け継ぐ主要な作品として意義付けられる」と述べる[89]。 久保惣本の貴人と船楽の場面(図5.)は、平安貴族の風習を表した歴史資料として、高等学校日本史Bの教科書に採用された[90]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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