飛田 周山(ひだ しゅうざん / とびた しゅうざん[1]、明治10年(1877年)2月26日 - 昭和20年(1945年)11月22日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は飛田 正雄(とびた まさお)[2]。別号に対月居。
文展・帝展審査員を務めたほか、岡倉天心を五浦に招いたことや、『小學国語読本』巻1の「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」の挿絵画家として知られる[3]。
略伝
茨城県多賀郡大塚村(現在の北茨城市磯原町大塚)に、飛田正・きよ夫妻の長男として生まれる。父は農業を営み、村会議員や野口量平(野口雨情の父)が北中郷村の村長を勤めた4年間は、その助役に就いていた。明治26年(1893年)に上京し、叔父の海野美盛の書生となる[4]。明治29年(1896年)当時東京にいた久保田米僊に入門。しかし、翌年米僊が金沢に赴任すると、上洛し竹内栖鳳に師事[5]。1900年4月頃に再び上京してから日本美術院研究所に入り、橋本雅邦に学ぶ[5]。この頃から積極的に展覧会に出品し、受賞を重ねる。
明治36年(1903年)、岡倉天心を茨城県の五浦に案内し、その別荘購入に尽力、のちの日本美術院五浦研究所設立のきっかけをつくる。明治39年(1906年)から昭和16年(1941年)まで文部省の嘱託として国定教科書の挿絵も担当した。天心没後は日本美術院から次第に離れ、以後文展や帝展などの官展で活躍する。大正6年(1917年)第11回文展の《幽居の秋》、同8年(1919年)第1回帝展の《神泉》がそれぞれ特選になっている。太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)に郷里へ疎開したが、東京大空襲で小石川区水道端の自宅が焼け、多くの作品が焼失したと考えられる。同年11月22日、疎開先でそのまま没した。享年68。
作品
作品名
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技法
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形状・員数
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寸法(縦x横cm)
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所有者
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年代
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出品展覧会
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落款・印章
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備考
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星合いのそら
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紙本著色
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四曲一隻
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172.5x355.6
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個人
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1915年(大正4年)
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第9回文展褒状
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風神雷神
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紙本著色
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双幅(円窓)
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87.0(各経)
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個人
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1916年(大正5年)
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第1回美術研精会連合個人展
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出品時は「秋意」
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後圃秋色
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紙本著色
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1幅
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148.4x46.9
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個人
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1917年(大正6年)
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第2回美術研精会連合個人展
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幽居の秋
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絹本著色
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六曲一双
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169.2x372.5(各)
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個人
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1917年(大正6年)
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第11回文展特選
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清風明月
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絹本墨画
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1幅
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137.0x49.7
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さしま郷土館ミューズ
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1920年(大正9年)
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老松図
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板地著色
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杉戸6面
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左4面:162.8x106.5(各) 右2面:163.8x80.8(各)
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花と歴史の郷 蛇の鼻
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1923年(大正12年)
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雲中古塔図
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絹本墨画淡彩
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1幅
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138.7x51.3
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常陸太田市郷土資料館
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1931年(昭和6年)
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僊山暁色図(蓬莱)
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絹本著色
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1幅
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137.4x51.4
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水戸美術
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1931年(昭和6年)
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第5回茨城美術展
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淼漫
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絹本著色
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額1面
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92.0x114.0
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茨城県近代美術館
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1935年(昭和10年)
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茨城会館開館記念美術展
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長城の暁
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紙本墨画淡彩
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1幅
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106.1x65.5
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茨城県立太田第一高等学校・附属中学校
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1935年(昭和10年)
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暁山雲
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紙本墨画淡彩
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額1面
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127.2x166.2
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東京藝術大学
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1936年(昭和11年)
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文展招待展
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款記「昭和丙子抄秋月周山写於碧雲洞中」/「碧雲洞」朱文方印
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政府買上げ
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大峯の行者
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紙本著色
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1幅
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234.5x147.3
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周山会
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1940年(昭和15年)
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紀元二千六百年奉祝会
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北茨城市指定文化財
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明恵上人と北条泰時
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紙本著色
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額1面
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181x181
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神宮徴古館
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承久の乱後、高山寺の明恵上人に教えを請う北条泰時[6]。
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脚注
参考文献