青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年5月11日) - 昭和14年(1939年)3月2日)は、日本のドイツ語学者。日本ゲーテ協会初代会長。
略歴
東京府南多摩郡鶴川村大蔵(現・東京都町田市)出身[1]。旧姓は中溝。神奈川県議会議長の中溝昌弘(東京都知事の鈴木俊一の曾祖父)の長男にあたる[2]。衆院議員で京浜電鉄社長の青木正太郎の娘婿[3]。
小学校には行かず、寺小屋に学び、医者になるつもりで私塾で独語を一年半学んだのち、第一高等中学校で6年間学ぶ[4]。東京帝国大学文科大学独逸文学科卒業後、大学院に進んだが翌年退学し、熊本の第五高等学校教授となる[4]。当時の校長は中川元、教員仲間に夏目漱石、上田整次、児島献吉郎、小島伊佐美、田丸卓郎らがおり、多大な影響を受けた[4]。生徒には寺田寅彦、木下季吉らがいた[4]。1901年に仙台の第二高等学校教授に転じた[4]。1908年、東京帝大助教授、1923年、教授。文学博士。1933年、定年退官。日本ゲーテ協会会長。
栄典
家族
- 実父・中溝昌弘(1841年生) - 上布田宿(現・調布市)出身の幕府の御殿医白鳥昌純の二男で、昌平坂学問所に学び、私塾を開き、1866年に大蔵村の中溝六左衛門の婿養子となった[6][7]。神奈川県の最初の結社「責善会」設立発起人、南多摩郡長、神奈川県議会議長などを務めた。曾孫に鈴木俊一[8]。
- 養父・青木正太郎
- 前妻・ノブ(1876年生) - 青木正太郎の長女[9]
- 後妻・キシ(1894年生) - 土志田清助(神奈川県恩田の地主)の妹[10]
- 子・青木郁太郎(1900年生)、青木欽次(1905年生)、青木三郎(1927年生) - ともにドイツ語学者[11]
著書
編著
- 邦語独逸文典 博文館1901.2 (帝国百科全書)
- 邦語独逸文章論 博文館 1902.4 (帝国百科全書)
- 実用独逸文典 博文館 1907.8
- 独語教材 第1-3巻 南山堂書店1915-1916
- 和文独訳教材 第1,2巻 南山堂書店 1918
- 独逸小文典 南山堂書店 1921
- 獨逸散文選 南山堂書店 1927.3
- 獨語授業第一讀本 南山堂書店 1931.3
註解
- ダス・ケチヘン・ホン・ハイルブロン クライスト(注釈)郁文堂書店1926.4 (詳註獨逸文學選)
- フアウスト 第1部 ゲーテ 郁文堂書店 1947
脚注
- ^ 上村直己『近代日本のドイツ語学者』(鳥影社、2008年)158ページ
- ^ 古林亀治郎『明治人名辞典』(日本図書センター)第2巻87ページ
- ^ 『町田近代百年史: 増補「町田市の明治百年」』(町田ジャーナル社、1975年)306ページ
- ^ a b c d e 上村直己「熊本時代の青木昌吉と『邦語独逸文典』」『九州の日独文化交流人物誌』第1巻、熊本大学、2005年2月、75-77頁。
- ^ 『官報』第4092号「敍任及辞令」1926年4月17日。
- ^ 『村野常右衛門伝: 民權家時代』村野廉一・色川大吉、中央公論事業出版、1969、p10
- ^ 『調布市史』調布市、1990、p163
- ^ 『調布市史』調布市、1990、p26
- ^ 青木正太郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 青木昌吉『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『近代日本のドイツ語学者』上村直己、鳥影社、2008
参考