中溝昌弘
中溝 昌弘(なかみぞ まさひろ、天保12年1月16日[1](1841年2月7日) - 昭和2年(1927年))は、明治時代の日本の地方政治家、自由民権運動家。地主、三多摩壮士の一人[2]。 来歴幕府御典医の白鳥昌領の次男として、北多摩郡上布田駅(現・東京都調布市)に生まれる[1]。嘉永5年(1852年)、幕臣松平次郎太の門下生となった[1]。同6年(1853年)に昌平坂学問所の素読吟味試験に合格した[1]。慶応2年(1866年)、中溝ブンと婿養子として結婚した[1]。この頃自宅で漢学塾を開く[1]。 明治11年(1878年)に結成された「責善会」で石坂昌孝らと活動した[3]。同年、11月18日に都筑郡長に、明治14年(1881年)6月28日には南多摩郡長に就任した[1]。その後、明治18年(1885年)11月に南多摩郡選出の神奈川県会議員となる[4]。その間、明治19年(1886年)8月から明治20年(1887年)11月までは第9代副議長を、明治20年(1887年)11月から明治21年(1888年)3月までは第11代議長を務めた[5]。明治21年(1888年)1月の議会解散で退任するが、翌月の選挙で当選した[4]。明治22年(1889年)12月に議員を辞職した[4][6]。晩年は政界から引退し、1927年死去。86歳。 親族
関連文献
脚注
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