青木周弼青木 周弼(あおき しゅうすけ、享和3年1月3日(1803年1月25日) - 文久3年12月16日(1864年1月24日))は、江戸時代後期の蘭方医。周防国大島郡和田村の地下医(村医)青木玄棟の長子[1]。諱は邦彦で、周弼は字。号は月橋。 生涯初め、長州藩医の能美洞庵に医学と儒学を師事する。18歳で大坂、30歳で江戸に行き、深川の坪井信道にオランダ語、臨床医を学び、その縁で宇田川榛斎にも師事した[2][3]。同門に緒方洪庵がいる。弟の青木研蔵と長崎にシーボルトに教授を受けにも行った。 天保10年(1839年)に長州藩医、天保13年(1842年)、周防医学所の教授蘭学掛になった。また、医学校の好生館設立に尽力、安政2年(1855年)に御側医に昇進した。研藏とともに藩内に種痘をし、コレラ治療に貢献した。門人も多く、村田清風とも交流を持ち、晩年は江戸で西洋医学所頭取就任の要請を固辞した。 著書に「袖珍内外方叢」や「察病論」などがある。 山口県萩市南古萩町にある青木周弼の旧宅は、当時の様子をよく残しており、萩市により公開されている。 脚注外部リンク青木周弼旧宅萩市観光協会公式サイト |