霓(にじ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。
「霓」は「虹」と同じ意味[18]。
一説には「虹」が雄、「霓」が雌という。
遭難艦は艦名を引き継がないという原則があったために、同名艦はない[18]。
艦歴
建造
発注時の艦名は第十二号水雷艇駆逐艇[19]。
1898年(明治31年)
1月に起工、
8月27日に「第十二号水雷艇駆逐艇」を「霓」と命名[20]。
1899年(明治32年)
10月18日に水雷艇籍の駆逐艇に類別[2]、
12月16日進水[9]。
1900年(明治33年)
1月1日竣工[10]。
回航員は1月5日に到着し[21]、
1月20日全員が乗艦した[22]。
2月11日に「薄雲」と共に[23]
イギリスを出港し[24]、
5月26日横須賀に到着した[6][24]。
6月22日、駆逐艇(水雷艇籍)は軍艦籍の駆逐艦に変更となり[25]、
「霓」は軍艦籍に編入され駆逐艦に類別された[6][3]。
6月23日から「霓」は大島沖と小柴沖で大砲公試発射、水雷公試発射を行い[26][27]、
結果は良好だった[28]。
喪失
同1900年に北清事変が起こり、7月22日、「霓」は「朧」と共に清国へ出勤し清国での警備を「薄雲」「陽炎」と交代することを命じられた[18]。
「霓」と「朧」は7月26日に呉港を出港、「霓」は済州島での「薩摩丸」座礁を報じるために一旦引き返して、7月28日に対馬の竹敷に到着、再び清国へ向かった[18]。
しかし7月29日、清国山東省南東岬沖で濃霧のため座礁した[6]。
遭難の原因は艦位置の誤認であった[6][18]。
船体の破壊が進み、8月3日午前8時45分に軍艦旗降下、「霓」は放棄された[18]。
乗員は救援に来た「豊橋」に収容され、8月3日に佐世保に帰着した[18]。
その後船体は水中に没した[18]。
1901年(明治34年)4月8日除籍[6]。
艦長
※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
- 回航委員長
- 財部彪 大尉:1899年7月25日 - 1899年10月6日
- 艦長
- 財部彪 少佐:1900年6月22日 - 1900年7月4日
- 荒川仲吾 大尉:1900年7月4日 - 1900年8月10日
脚注
出典
参考文献
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 造船協会/編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。