陳明
陳 明(ちん めい[1]、朝鮮語: 진명、生没年不詳)は、百済東城王代に南斉に使臣として派遣された百済の官僚[1]、貴族[2]。百済に帰化していた中国人[3][4][5][6]。陳明の子孫の陳法子の墓誌が中国で出土しており、墓誌によると、陳明の先祖は、後漢末期の混乱期に中国から朝鮮に移住した[7]。移住時期は、後漢末期の184年に起きた黄巾の乱から各地方の軍閥が乱立するようになった献帝の建安年間までの間であるが、これ以上の具体的な時期は分からない[7]。一族には、太学の長官を務めた陳春、百済の官職「達率」に任ぜられ、麻連大郡将を務めた陳徳止、百済の官職「徳率」に任ぜられ、参司軍を務めた陳微之、百済・唐戦争において軍事業務を担当する百済の将軍だったが、唐軍に投降し、百済滅亡後、唐に移住して洛陽で暮らし、唐の将軍として活動した陳法子などがいる[8]。 概要百済には中国系の百済官僚が多数存在しており、これを示すのが『南斉書』百済伝の以下の記事である[9]。
この記事には慕遺、王茂、張塞、陳明などがみえるが、彼らは姓氏から推して中国系の百済官僚といえる[9]。 百済の国王幕府の属僚
脚注
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