阿道
阿道(あどう、生没年不詳[1])は、高句麗に仏教を伝えた中国東晋の僧。我道、阿頭、阿度とも呼ばれる。 374年(小獣林王四年)に東晋から高句麗へ渡来した[1]。インド[2]もしくは西域に出自をもつとみられる[3]。『三国史記』巻十八・高句麗本紀[4]、『三国遺事』巻第三・興法第三[5]に阿道に関連する記事がある。 新羅訥祇王代(417年から457年)に高句麗から新羅の一善郡に来て仏教を伝えた墨胡子と阿道とを同一人物とする伝えがあり、また阿道は父を魏の人、母を高句麗人とした3世紀の僧とする異伝もある[1]。 概要阿道の名は以下の僧として伝えられている。
528年(新羅法興王14年)にはじめて新羅に仏教を伝えた高句麗の墨胡子は、阿道と同一人物であると『三国遺事』は伝えている。372年に高句麗に仏教を伝えた人物と528年に新羅に仏教を伝えた人物が同一とは考えられず、阿道の伝承は混乱している。 記録前秦の順道が高句麗に初めて仏教を伝えた2年後の374年(高句麗小獣林王4年)、東晋の僧である阿道も高句麗にわたり、仏教の布教を行った。375年(高句麗小獣林王5年)、小獣林王は肖門寺(省文寺)を創建してそこに順道をおき、また伊弗蘭寺を創建してそこに阿道をおき、これが朝鮮の仏教のはじめとされる[1]。 考証新羅仏教の伝来をまとまった形で記録したものは、『三国史記』巻四・法興王十五年(528年)条であり、この年、新羅は「肇めて仏法を行ふ」といい、仏教の国家的公認に踏みきったという。『三国史記』は、公認に至る経緯を以下のように述べている[6]。
末松保和は、『三国遺事』『海東高僧伝』にある新羅仏教伝来に関する異伝に注目し、『三国史記』と『三国遺事』『海東高僧伝』の比較から、次の結論に達した。すなわち、『三国史記』の伝来説話を(A)とし、異伝を、(B)我道和尚碑の伝承(『三国遺事』巻三・阿道基羅条所引)、(C)古記の伝承( 『海東高僧伝』巻一・阿道伝所引)、(D)高得相の詩史の伝承(『海東高僧伝』巻一・阿道伝所引)とすると、(D)が古形を伝え、以下(C)(B)(A)の順に新しい発展を示し、新羅仏教伝来の中核的史実は以下の3点に帰する[6]。
薗田香融は、「末松の精緻な研究につけ加えるものは何もないが、以下若干の説明を補足しよう」として、以下指摘している[6]。
功績高句麗では、小獣林王代に太学が建てられ、儒教教育をおこなったとされるが、太学や儒教と対を成す仏教が前秦の順道の高句麗入国によって齎されたように、高句麗の太学の整備も中国系移民の関与が想定され、中国系移民は高句麗の対内的・対外的国家的発展に多方面で活躍した[7]。一方、中国系移民の役割があっても、太学の設置や儒教教育が可能だったのは、中国が朝鮮に設置した植民地である楽浪郡・帯方郡の郡民という基礎的土台が存在していたことが大きく、太学の設置や儒教教育を整備できたのは、それらを受容できるほど社会が発展していなければならず、それには、中国王朝の支配を長期間経験している楽浪郡・帯方郡民を高句麗が接収できたことが大きい[7]。この関係を垣間みれるのは高句麗における仏教受容と太学設置である。順道の高句麗入国の3年後、高句麗は肖門寺と伊弗蘭寺を建立し、各々順道と阿道を住まわせており、高句麗では、仏教受容をめぐって殉教者(異次頓)をだした新羅のような葛藤が起きなかった可能性が高い。その背景には、仏教を信奉していた楽浪郡・帯方郡民を通じて仏教受容の土台が形成されていたからであり、また、貴族の子弟教育を通じて官吏を養成する太学設置も高句麗社会の漢文化が高水準に達していなければならず、これにも楽浪郡・帯方郡民を接収できたことが大きい[7]。 脚注
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