阮福ルァン
阮福㫻(グエン・フック・ルァン、ベトナム語:Nguyễn Phúc Luân / 阮福㫻、龍徳2年4月29日(1733年6月11日) - 景興26年9月10日(1765年10月24日))は、広南国の王族。阮福椇(グエン・フック・コー、ベトナム語:Nguyễn Phúc Cộ / 阮福椇)とも。 生涯武王阮福濶の次男として生まれる。母は温誠太妃張氏容。景興26年(1765年)7月、重病に陥った武王は阮福㫻を後継者に指名した。しかし、英明な阮福㫻が即位することを恐れた権臣の張福巒が太監の褚徳、掌英の阮久通らと結託して武王の遺命を捏造し、王位は十六男の阮福淳が継いだ[1]。阮福㫻は冷室に軟禁され、同年10月に死去した。 景興39年(1778年)に三男の阮福映が柴棍において大元帥摂国政として自立すると、亡父に慈祥澹泊寛裕温和孝康王と追尊した。阮福映が阮朝を建てると、嘉隆5年6月9日(1806年7月24日)に仁明謹厚寛裕温和孝康皇帝の諡号を追尊し、西山朝によって荒らされた陵墓を再建し[2]、陵号を基聖陵とした。阮福㫻を祀る皇考廟が建てられた。明命2年(1821年)に孫の明命帝によって興祖の廟号を追贈され、皇考廟から興廟に移された。 後宮と子女后妃子女出典
参考文献
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