関氏盛
関 氏盛(せき うじもり)は、江戸時代前期の旗本寄合。伯耆国黒坂藩の嫡子だった人物。 関盛吉(関盛信3男)の長男。母は森本氏。正室は本多正純の養女。子に関長盛、娘(大河内重綱室)、娘(横田由松[1]室)がいる。 伯父で黒坂藩主の関一政の養子となった。通称は兵助。号は自閑。官位は従五位、下安芸守、兵部少輔。 略歴養父の一政は、家中騒動のため元和4年(1618年)に改易されたが、嫡子だった氏盛には近江国蒲生郡で5,000石が与えられ、寄合に列する。 寛永17年(1640年)に久能山東照宮の造営奉行を務め、その後正保2年(1645年)に輪王寺三仏堂・新宮拝殿の造営、万治元年(1658年)に天樹院の館の普請、安宅丸の修補奉行などに携わる。 寛文8年(1668年)に致仕して家督を子の長盛に譲る。延宝2年(1674年)、死去。法名は紹由、墓所は東京都台東区下谷の広徳寺。 系譜脚注 |