長谷川東蔵長谷川 東蔵(東藏、はせがわ とうぞう、1904年〈明治37年〉6月23日[1][2] - 1963年〈昭和38年〉2月20日[3])は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県会議長、岐阜県恵那市長。旧名・俊一[3]。 経歴岐阜県[3]恵那郡東野村(現恵那市東野)で、長谷川藤藏、ひろ の長男として生まれる[4]。1930年(昭和5年)東北帝国大学法文学部法律科を卒業[1][3][4]。さらに同大大学院で学んだ[4]。 1932年(昭和7年)11月、岐阜県会議員に選出され、同参事会員、同副議長、同議長を歴任した[1][2][3][4]。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で岐阜県全県区から日本進歩党公認で立候補(俊一名義)したが落選[5]。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で岐阜県第2区から民主党公認で出馬(俊一名義)して当選し[6]、衆議院議員に1期在任した[3]。その後、第24回(新自由党公認、俊一名義)、第25回総選挙(無所属、東蔵名義)に立候補したがいずれも落選した[7]。 1958年(昭和33年)4月27日、恵那市長に就任[1][2][3]。2期在任し1963年2月心臓麻痺のため急逝した[2]。この間、財政赤字の解消、市民祭の開催、市民会館の建設、企業誘致の推進などに尽力した[2]。 実業界では、岐阜県亜炭鉱業会理事長、大日本亜炭鉱業会理事長、全国亜炭産業統制組合理事、第一証券社長、岐阜県証券協会理事長、日本陶磁器加工社長、日吉鉱業取締役などを務めた[1][3]。 脚注参考文献
|