長谷川基
長谷川 基(はせがわ はじめ、1884年(明治17年)10月26日[1] - 1960年(昭和35年)4月24日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2] 経歴1884年(明治17年)に島根県で生まれた[1]。兵卒から陸軍教導団を経て[3]、陸軍士官学校第29期に進み[1]、陸軍大学校第31期を卒業した珍しい経歴の人物である[1][3]。1935年(昭和10年)に陸軍省整備局統制課高級課員に就任[2]。1936年(昭和11年)3月7日に陸軍歩兵大佐進級と同時に陸軍省整備局動員課長に就任し[2]、8月1日には戦備課長に転じた[2]。1938年(昭和13年)に支那駐屯歩兵第1連隊長に就任し[2]、日中戦争に出動した[1]。 1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将に進級し[2]、留守第1師団司令部附となる[1]。5月19日に陸軍兵器本廠附を経て[1]、同年5月10日に設立していた陸軍燃料廠の初代廠長に7月1日に就任した[1][3]。陸軍内には燃料の専門家が一人もいなかったことから[4]、田中芳雄、矢木栄、児玉信次郎、磯部甫、中原延平、玉置明善などの燃料関係の学者・技術者からなる顧問会議を設置し、技術指導を受けることとした[5]。さらに長谷川は、優秀な技術将校を前線に送ることなく、本土で温存することに注力している[6][7][8]。その技術将校は戦後日本の復興に多大な貢献を残している[9]。1941年(昭和16年)10月15日に陸軍中将に進級[2]。1944年(昭和19年)11月11日に待命[1]、12月1日に予備役に編入された[1]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[10]。 栄典
脚注
参考文献
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