長応寺 (品川区)

長応寺
所在地 東京都品川区小山1-4-15
位置 北緯35度37分16.1秒 東経139度42分41.2秒 / 北緯35.621139度 東経139.711444度 / 35.621139; 139.711444座標: 北緯35度37分16.1秒 東経139度42分41.2秒 / 北緯35.621139度 東経139.711444度 / 35.621139; 139.711444
山号 芳荷山
宗派 法華宗陣門流
創建年 文明11年(1479年
開山 日暹
開基 鵜殿氏
中興年 天正18年(1590年)【第1次】、明治40年(1907年)【第2次】
中興 日翁【第1次】
法人番号 9010705000186 ウィキデータを編集
長応寺 (品川区)の位置(東京都区部内)
長応寺 (品川区)
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長応寺(ちょうおうじ)は、東京都品川区にある法華宗陣門流寺院

概要

1479年文明11年)、三河国豪族鵜殿氏の開基である。元々は鵜殿氏の拠点だった西郡(現・愛知県蒲郡市)に位置していたが、戦災で廃寺になってしまった[1]

1590年天正18年)、徳川家康江戸入府の際に、鵜殿氏出身で家康の側室の西郡局によって日比谷の地に再興された。その後、江戸市中を転々とし、最終的にに落ち着いた[2]

幕末期に、オランダ公館に指定されたことで、宗教活動が停止状態に陥り、明治以降も廃仏毀釈士族の没落もあり、すっかり寺運衰微してしまった。そこで寺勢挽回を図るべく、所属宗派の法華宗(法華宗陣門流の旧称)が経営していた「法華宗農場」の寺院として北海道天塩郡幌延村に移転した。現在も長応寺として、道北としては異例の由緒ある歴史を持つ寺院となっている[2]

1863年にオランダ公使館が横浜に退去したが、明治維新後、ここに戻ってこなかったため、施設は外国人のための「チョウオウジ(Chooji)」ホテルとレストランとして営業した。特に築地ホテル館が焼失した後は、外国人に重宝された。

一方、東京府荏原郡平塚村の現在地にも、1907年明治40年)に「長応寺」の名称を持つ寺が建てられた。これが当該記事で取り上げる「長応寺」である。結果として「長応寺」の名称を持つ法華宗陣門流寺院が東京と北海道の二つ存在することになった[1]

その後、関東大震災、隣接工場からの延焼、空襲など度々被害に遭っている。墓地には、江戸で寺院を再興した西郡局の分骨を葬った墓がある[3]

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b 品川史跡めぐり品川区
  2. ^ a b 林善茂「法華宗農場顛末」『北海道大學 經濟學研究』第12巻第2号、北海道大学經濟學部、1963年、11-29頁、ISSN 04516265NAID 120000950390 
  3. ^ 平野栄次 著『品川区史跡散歩 (東京史跡ガイド9)』学生社、1993年、149p

参考文献

  • 平野栄次 著『品川区史跡散歩 (東京史跡ガイド9)』学生社、1993年

関連項目