長尾景信
長尾 景信(ながお かげのぶ)は、室町時代中期の武将[1]。山内上杉家の家宰。白井長尾氏4代当主。上野国・武蔵国守護代。妻は長尾頼景の娘[1]。 生涯長尾景仲の子として誕生[1]。通称は四郎[1]。寛正2年(1461年)、右衛門尉[1]。 同年、家督を継ぎ、山内上杉家の当主・上杉房顕の執事となった[1]。 文正元年(1466年)に房顕が嗣子無くして死去する[1]。そのため越後国の上杉房定の子・顕定を山内上杉家に迎え[1]、文正2年(1467年)には関東管領にしている。そして景信自身は守護代として山内上杉家の実権を掌握し、陰の実力者として古河公方である足利成氏と対立する。 文明3年(1471年)、左衛門尉[1]。同年4月、自ら総大将として上杉軍を率いて下野国に攻め入り、赤見城や樺崎城を落としている。同年6月24日、成氏の居城・古河城を陥落させた[2]。しかし文明4年(1472年)に成氏が古河城を奪い返したため、再び自ら総大将として下総に攻め入り、足利軍と対峙する。 翌文明5年(1473年)6月23日、死去[注 1][3]。享年61。法名は法性院玉泉宗徳[3]。 景信の死後、顕定は弟・忠景を山内家の執事職に任じたため、これに不満を抱いた景信の嫡男・景春は足利成氏に通じた(長尾景春の乱)[3]。 脚注注釈
出典参考文献 |