金素月
金 素月(日本語読み: きん そげつ、朝鮮語読み: キム・ソウォル、1902年陰暦8月6日 - 1934年12月24日[1])は、大韓帝国の詩人である。本名は金 廷湜(キム・ジョンシク)。素月は号。 1920年、忽然と文壇に現れ、流れるような朝鮮語でもって情と恨(ハン)を独特の律調で表現した。天才詩人と呼ばれたが、32歳で自らその命を絶った。朝鮮近代文学を代表する民族詩人と称され[2]、朝鮮で最も多く詩集が出版されている詩人といわれている[3]。彼の詩のうち4篇が『朝鮮詩集』[4]に収録されている。1990年9月に韓国の「この月の文化人物」に選ばれた。 略歴1902年陰暦8月6日、平安北道亀城郡旺仁洞で生まれた。父は金性燾。6歳下の妹・金仁姐がいる。100日後に平安北道定州郡郭山面南端洞の父の家に移った。裕福な家庭であったが、素月が2歳のとき、父が日本の鉄道敷設工事に従事中、日本人による殴打により精神に異常をきたす[5]。そのことが、後の素月の人生に暗い影をさす。幼少の頃は祖父に漢文を習い、祖母に昔話を教わった。7歳で南山学校に入学した。友達もなく、いつも独りでいたという。 南山学校を卒業するとすぐに祖父の紹介で洪時玉家の娘、丹実と結婚した。学業を優先したい素月としては気の進まない結婚であった。 五山学校中学部で出会った教師、金億の影響で詩を書き始める。そして金億の口添えで文芸雑誌『創造』5号に「詩人の春」など5篇の詩を発表した[2]。1922年、培材学校の5学年に編入した素月は、『開闢』を通して早くも37篇の詩を発表している。1923年に培材学校を卒業後は本土に渡り、東京商科大学に入学するが[6]、関東大震災により帰郷した。同年には「かつてはついぞ知りませんでした」(예전엔 미처 몰랐어요)、「行く道」(가는 길)など彼の代表作となる詩を発表している。1924年に金東仁らとともに「霊台」同人として活動[1]、「山有花」(산유화)などの詩を発表した。 1925年、生前唯一の詩集『つつじの花』(진달래꽃)を出版したときが彼の頂点であった。同年には詩論『詩魂』を発表している[1]。その後、詩作が活発でなくなっていく。1926年頃から東亜日報の支局を運営するようになるが、思うようにいかなかったようで、土地を売って運営資金を捻出したが行き詰まり、3年後に事業をやめた。経済難が素月を追い込み、酒に身を委ねるようになった。 1934年、9年ぶりに故郷に戻り、墓参りをした。そして市場で阿片を買い求めた。12月24日、阿片により服毒自殺を遂げた[1]。亀城郡西山面に埋葬されたという。1968年、韓国日報社がソウルの南山に「素月詩碑」を建てた。 年譜
日本語で読める作品
脚注
関連項目 |