金沢嘉市
金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 1986年10月10日)は、日本の教育者・教育評論家。 愛知県出身。41年の教員生活で世田谷区立祖師谷小学校校長などを務め、定年後には「児童教育研究家」の肩書で活動した。 経歴青年時代1908年(明治41年)10月2日に愛知県宝飯郡蒲郡町平田村(現・蒲郡市平田町)に生まれた。父親は平田村の副区長や区長を務めた。1915年(大正4年)に蒲郡町立東部小学校に入学し、1921年(大正10年)に宝飯郡実業学校(その後愛知県立蒲郡農学校に改称、現在の愛知県立蒲郡高等学校)に入学して教員の道を目指した。1927年(昭和2年)に東京の青山師範学校二部(東京学芸大学の前身)に入学し、1928年(昭和3年)に青山師範学校を卒業して小学校教師となった。 教員時代まずは東京府西多摩郡多西村(現・あきる野市)の多西村立多西小学校に赴任し、1931年(昭和6年)に北豊島郡(現・豊島区)の西巣鴨第三小学校に転任した。1935年(昭和10年)に南山小学校の養護教諭だった木下イトと結婚した。1940年(昭和15年)に芝区の南桜小学校に転任した。1943年(昭和18年)に芝区の麻布中央国民学校に転任した。1944年(昭和19年)に芝区の愛高国民学校に転任した。1947年(昭和22年)に港区の港区立桜川小学校に転任した。1955年(昭和30年)に世田谷区の世田谷区立玉川小学校に教頭として転任した。 1958年(昭和33年)には50歳で世田谷区の世田谷区立祖師谷小学校の校長となり、勤務評定問題と向き合った。1962年(昭和37年)には世田谷区立三宿小学校の校長となり、学力テスト問題と向き合った。1966年(昭和41年)には世田谷区立代沢小学校の校長となり、1967年(昭和42年)には岩波書店から『ある小学校長の回想』を出版した。1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)には家永教科書裁判で証言を行った。1969年に定年となり、同年にはモービル児童文化賞を受賞した。 児童教育研究家時代定年後には「児童教育研究家」の肩書で活発に教育評論活動を行い、さまざまな都市で講演などを行った。1972年(昭和47年)にはTBSの「母と子の教育相談」に教育評論家の丸木政臣らとともにレギュラー出演した。同年にあすなろ書房から出した『つしま丸のそうなん 沖繩の子どもたち』は、第19回産経児童出版文化賞に推薦されている。1974年(昭和49年)には学校法人明星学園の理事となった。1978年(昭和53年)には子どもの文化研究所の所長となった。1985年(昭和60年)には東京女子医科大学病院に検査入院して肺線維症と診断され、1986年(昭和61年)10月10日に清瀬市の国立療養所東京病院で死去した。78歳没。 死後墓所は杉並区久我山の専光寺。死後の1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にはあゆみ出版から『金沢嘉市の仕事』全5巻が刊行された。死後には出身地の蒲郡市立図書館に遺族から蔵書が寄贈され、1993年(平成5年)には図書館に「金沢ヒューマン文庫」が設置された[1]。 著書単著
共編著
脚注
外部リンク
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