野村茂久馬野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年12月28日[1]) - 1960年(昭和35年)2月11日[2])は、「土佐の交通王」と呼ばれた実業家。財団法人板垣会第12代会長[3][4]。坂本龍馬先生銅像建設会会長[5]。桂浜・坂本龍馬先生銅像の建立責任者[5]。高知城公園・板垣退助先生銅像の再建責任者[4]。 概略近代交通黎明期に高知県の海運・陸運の発展に貢献し、土佐湾岸航路、バス、鉄道等多くの交通事業に携わった。 現在のとさでん交通の前身会社の一つである高知県交通の前身である野村組自動車部、現・新高知重工の前身である野村組工作所の創設者である。 また、私鉄高知鉄道手結-安芸線(後の土佐電気鉄道安芸線:昭和49年(1974年)の建設なども手掛けた。 昭和初期、独自に本四連絡橋神戸・鳴門ルートの構想を持つなど先見の明を持っていた。 坂本龍馬、中岡慎太郎、板垣退助らの銅像を建てるため奔走する人々に、乗合自動車の無料乗車券を発行する等の支援をした[5]。 来歴生い立ち明治2年12月28日(1870年1月30日)、野村健吉の長男として、土佐国安芸郡奈半利村(現在の高知県安芸郡奈半利町)に生まれる[6]。母は北川氏(貞子[5]) 13歳の時、銀行勤務の父に伴われて、高知市内に移る。西南戦争の翌年にあたる、明治11年(1878年)、高知県尋常中学校(現校名・高知県立高知追手前高等学校)に入学[1]。(ライオン宰相、濱口雄幸(高知市出身)とは同級生) 明治23年(1890年)上京して、東京専門学校(現・早稲田大学)に入り、政治、経済を学ぶが[1]、明治24年(1891年)学業を断念して実家に戻る[6]。この頃、結婚をしたが、野放図な性格から浪費がかさみ、父と衝突して家を出、明治30年(1897年)、高知市内に居を移した[6]。 実業家として明治30年(1897年)、内国通運高知取引所(現・日本通運高知支店)を預かり、明治37年(1904年)、日露戦争の戦地輸送を手掛ける[6]。 大正8年(1919年)8月15日、株式会社野村組自動車部を資本金1万円で設立し、さらに、大正9年(1920年)土佐沿岸汽船株式会社を設立。 大正10年(1921年)、高知工作所を買収し、海陸運輸関連事業を拡大させる[6]。 昭和2年(1927年)1月、早稲田大学に在学中であった発起人・入交好保の趣旨に賛同し、推されて「坂本龍馬先生銅像建設会」の会長職に就任[7]。4月、寄附行為の許可を受け、銅像建設事業に取り組む[5]。 昭和3年(1928年)、株式会社野村組自動車部を、野村自動車株式会社と商号変更した。 貴族院議員として昭和7年(1932年)高知県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任[8]。昭和8年(1933年)、高知商工会議所会頭となり、昭和14年(1939年)、貴族院議員に再選[9]。政友会支部長の任につく[6]。研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。 株式会社野村組と野村自動車株式会社を合併して、野村産業株式会社(この会社は昭和60年(1985年)に福山通運に傘下入りし高知福山通運に商号変更)とし、事業の拡大をはかった。 文化人として郷土愛が深く、人望もあり、政財界に通じ桂浜の「坂本龍馬先生銅像」、室戸の「中岡慎太郎先生像」の建立を支援し、1937年(昭和12年)、高知・板垣会館の建設にも尽力する。同4月6日の「板垣会館」落成式に際し、来高した国士・頭山満を自邸に招いて摂待し、乗用車を提供して便宜に尽す[10]。昭和16年(1941年)、財団法人板垣会編纂書籍『憲政と土佐』に対し私財を拠出して支援。11月3日、同上を出版させた[11]。 実業家として辣腕を振い、また各種文化事業にも取り組む。昭和19年(1944年)、野村産業株式会社のバス部門が独立し、高知県交通株式会社となるが、大東亜戦争の戦局悪化に伴い、昭和20年(1945年)7月4日、高知市内も敵機の空襲によって焼失するなど、苦難を経験する。昭和21年(1946年)1月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指示により公職追放され、引退して奈半利町に籠居した。 昭和26年(1951年)8月、公職追放解除の後、高知市天神町に居を移す。この時、参議院議員・寺尾豊を会長とする「野村茂久馬翁寿像建設会」が組織され、大詔奉戴日にあたる同年12月8日除幕式を迎えた[5]。更にこの頃、推されて財団法人板垣会の会長となり、戦時に金属供出して空の台座のみとなっていた高知城公園の「板垣退助先生銅像」の再建事業に取り組んだ[4]。現在、高知城公園に板垣退助の銅像が存在するのは、この再建活動の賜物である[4]。 家族・親戚出典は、久曜会野村翁編纂委員会編著『野村茂久馬翁』。
松寿との間には他に三男の武雄、四男の好直(七男とは別人)がいたがいずれも幼死している[12]。
脚注・注釈脚注
注釈
参考文献
関連項目
外部リンク |