野口援太郎
野口 援太郎(のぐち えんたろう、1868年11月2日(明治元年9月18日) - 1941年(昭和16年)1月11日[1])は、日本の教育者。 来歴明治元年(1868年)生まれ。筑前国鞍手郡木屋瀬村(現・福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)出身。実家は長崎街道木屋瀬宿の人馬問屋場役を務めており、今も生家が残っている[2]。東京高等師範学校卒。明治34年(1901)姫路師範学校の初代校長となる。 大正デモクラシーを背景に自由主義教育を唱え、大正13年(1924年)に「池袋児童の村小学校」を設立。児童中心主義に立ち、教科や時間割の枠にとらわれず、子どもと教師の生活共同体的な学びの場を目指した。池袋児童の村小学校は、昭和11年(1936年)には母体である教育の世紀社の経営が苦境に陥り、閉鎖を余儀なくされた。この小学校の中学部としてスタートした学校が城西学園となった。 昭和16年(1941年)死去。 著作
脚注
関連文献
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