酒井忠匡
酒井 忠匡(さかい ただまさ)は、江戸末期の大名、明治期の日本の華族(子爵)。 左衛門尉酒井家分家8代目当主で、出羽松山藩第8代(最後)藩主、松嶺藩初代(最後)知藩事。 生涯安政3年(1856年)12月19日に7代藩主・酒井忠良の三男として生まれる。明治元年(1868年)12月、父が戊辰戦争で幕府側に与したため強制隠居処分となり、家督を継いだ。 明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となる。このとき、松山を松嶺と改名した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県で免官される。 明治前期の忠匡の住居は東京市浅草区浅草にあった。当時の家扶は鈴木力、加藤寔守、中村一致[1]。 家族父母 妻 子女 脚注
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