那須資礼
那須 資礼(なす すけひろ)は、江戸時代後期から末期にかけての旗本・歌人。那須氏32代[1]当主。千種有功の門人。 略歴出羽国久保田藩7代藩主・佐竹義明の次男・佐竹義方の子として誕生した[2]。 文化6年(1809年)6月2日、交代寄合・那須資明の婿養子となる。文化8年(1811年)3月27日、養父・資明の隠居により、家督を相続した。文化9年(1812年)2月23日、江戸幕府11代将軍・徳川家斉に御目見する。那須家墓所である下野国玄性寺の整備も行った。 万延元年(1860年)7月29日、隠居し、養子・資興に家督を譲る。以降、聴松と号する。 系譜脚注
出典
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