遠山啓遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 1979年9月11日)は、日本の数学者。東京工業大学名誉教授。 数学教育の分野でよく知られる。 熊本県下益城郡(現・宇城市)出身。 銀林浩と共に「水道方式」という初等教育で計算規則を教える方法を考案し、当時の文部省の学習指導要領準拠の算数教科書授業よりも、はるかに効果の高いことを実験的に証明した。 略歴・人物1909年(明治42年)、大韓帝国の仁川に生まれるが、すぐに郷里の熊本県に帰る。小学校4年で東京に移り、母親と二人で手狭な家に同居していたように暮らし向きは決して裕福ではなかった。渋谷の千駄ヶ谷小学校から東京府立一中に入学。同級生に牛場信彦[注 1]、佐久洋(元中小企業庁長官)らがいた[1]。その後、旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科に入学するも退学。小学校時代から社会や人間に関わるのが嫌いで、不運な国に生まれたと感じていた。そのためもあって、証明で千人万人を納得させられる数学で身を立てていこうと思ってきたことをここで再度認識する[1]。これにより東北帝国大学理学部数学科に再入学し、1938年に卒業。この時28歳だった。 卒業後、霞ヶ浦海軍基地の航空隊の教官(海軍教授)を務めながら、整数論と代数関数論の研究をしていた。 1944年から東京工業大学に助教授として勤務、1949年、同大学教授に就任。戦後間もない頃の学生には吉本隆明や奥野健男がおり、共に遠山から甚大な影響を受けた。 子供が通う小学校で観た算数教育に疑問を感じたことがきっかけで[2]、1951年(昭和26年)、数学教育協議会(数教協)を結成し、長くその委員長として、小・中・高校の教育現場での数学教育を指導し、数学教育の改革に率先してその力となった[注 2]。中学校の数学教育において、因数分解や幾何の証明など、あまりに難解な問題を生徒に課すことや、生徒が間違わないことを過度に重要視する日本の学校教育を批判していた。 「タイル」というシェーマの使用、「数」による指導に加えて幾何学量(長さ、面積など)にもとづく「量の概念」の導入、「水道方式」という数学の学び方を開発。 1970年東工大を定年退官、名誉教授。1973年には、教育の全体をどう変えていくかをテーマに、雑誌『ひと』を創刊。 1979年(昭和54年)、転移性のがんのため埼玉県大宮市さきたま病院にて死去。享年70。 著書
単著
共編著
翻訳
脚注注釈出典関連項目 |