趙陶斎趙 陶斎(ちょう とうさい、正徳3年(1713年) - 天明6年4月20日(1786年5月17日))は、江戸時代中期の書家である。 名は養、字を仲頤、号は陶斎、他に息心居士、枸杞園、清嘩閣等がある。長崎生まれ。 生涯趙淞陽という清国南京の来舶商人が丸山遊廓に遊び、陶斎はこの中国人と花魁との間に生まれた。趙子昂の末裔ともいわれる。幼くして孤児となり不遇な生い立ちでは会ったが、清の帰化僧竺庵浄印が長崎の東明山興福寺に来たとき、竺庵に目をかけられこれに入門。11歳で僧となる。享保19年(1734年)に竺庵が黄檗宗本山である宇治萬福寺の堂頭になったため、一緒に京都に上る。28歳までの18年間僧籍にあったが、元文5年頃になんらかの事情で還俗して儒者となった。諸国を遊歴すること、東西南北58ヶ国に及んだという。32歳頃に江戸に出て麻布などに住んで十数年を過ごした後、46歳頃に大坂の中国通詞深見久兵衛方に身を寄せる。塩町に住み妻帯し一時期、内田氏(妻側の氏と推定)を名乗る。58歳頃に堺に移り益田孟文というパトロンの別邸に起居し、売薬などをして生計を立てている。このとき裏庭に枸杞を植え枸杞園と称しており、その実を丸薬として調合し生計の足しとしていた。65歳のときに娘を授かっている。70歳を祝して福家という料亭で盛大な賀宴が催されている。 享年74。増山雪斎が儒官十時梅厓を堺に派遣して葬儀を取り仕切った。南宗寺本源院に葬られる。 書陶斎は書画、篆刻に優れた。はじめ禅僧 竺庵より唐風の書法を習い、やがて文徴明や趙孟頫に私淑し、晩年は米芾に傾倒した。先哲の書法を学ぶため、書帖や墨跡を集め臨模に努めた。大坂に移り住んだ頃から書家として名声があがり、「唐様」の第一人者として人気を博し多くの門弟が集った。頼春水、木村蒹葭堂、十時梅厓、伊勢長島藩主増山雪斎・森田士徳などが著名な文人がその門下となっている。後年江戸の書家 市河米庵は陶斎の書には和習(和臭)がないとして第一の書家に掲げた。頼山陽も独立性易・北島雪山と並べ上等の評価を与えている。 人物・エピソード
参考文献 |