南宗寺
南宗寺(なんしゅうじ)は、大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は龍興山。本尊は釈迦如来。三好氏の菩提寺。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されている。 歴史大永6年(1526年)8月[1]に古嶽宗亘が堺南荘にあった庵を南宗庵と名付けた。宗亘はこの庵を法嗣の伝庵宗器に継がせたが、宗器が早世したため、もうひとりの法嗣だった大林宗套が南宗庵3代目となった[2]。 弘治3年(1557年)当時、畿内随一の実力者に上り詰めた河内国飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大林宗套に開山を依頼し、南宗庵をもとにして南宗寺を創建した。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。 南宗寺が落成したのは宗套の死後、笑嶺宗訢が2代目の住持を務めていた時代で、山号の龍興山を名付けたのも宗訢である。さらに、元亀4年(1573年)には足利義昭により十刹とされた[3]。 天正2年(1574年)の松永久秀の兵火で焼け、三好之長を祀っていた三好神廟から8寸の黄金像が略奪されている[2]。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、4月28日に豊臣方の大野治房による堺焼き討ちで市街とともに焼失したが、その後、元和5年(1619年)に当時の住職であった沢庵宗彭によって現在の場所に移されて再興された。現存する仏殿、山門などは沢庵の没後、17世紀半ばに整備されたものである。 太平洋戦争中の1945年(昭和20年)7月10日に行われた第6回大阪大空襲(堺大空襲)で開山堂、方丈、庫裏、茶室「実相庵」、東照宮などを失ったが、境内は江戸時代の禅宗寺院の雰囲気を今もとどめている。 大坂夏の陣において、徳川家康が後藤又兵衛に槍で刺されて落命したという伝説があり、密かに家康をお祀りしたとされている。 境内には臨済宗東福寺派の寺院である海会寺がある。かつて一時期だけ当寺の塔頭であった名残で現在もこの地にある。 伝・徳川家康の墓当寺には徳川家康の墓とされるものが開山堂の跡地にある。当寺に伝わる『南宗寺史』には[4]、「大坂夏の陣で真田信繁の攻撃を受けて敗れた徳川家康は、駕籠に乗って逃げる途中で後藤又兵衛に見つかり、その槍で突かれて辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を当寺の開山堂の下に隠し、後に改葬した」との話がある。しかし、史実では、大坂夏の陣の前哨戦で堺はすでに大野治房によって焼き払われており、当時の堺には当寺も焼かれてしまってなかったとされる。また、又兵衛は家康にまみえたとされる日の前日に道明寺の戦いで討死している。 墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文が残っている。当地にはかつて東照宮があったが新しく作られた現在の徳川家康の墓は水戸徳川家家老の末裔三木啓次郎が1967年(昭和42年)に東照宮本殿の跡に建てたものである。碑石の銘には「東照宮 徳川家康墓」とある。 境内
文化財重要文化財国指定名勝前後の札所交通
参考文献
脚注
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