調老人
調 老人(つき の おきな)は、飛鳥時代の官吏。姓は忌寸(伊美吉)。官位は正五位下・大学頭、贈正五位上。 出自調氏(調忌寸)は、東漢氏の一族に属する漢系渡来氏族[1]。租税の一つである調の管理・徴収に従事したことが由来とされる[2]。延暦4年(784年)坂上苅田麻呂の上表文により、坂上氏・山口氏などのほかの忌寸姓の10氏族と共に宿禰に改姓した[3]。 経歴持統天皇3年(689年)志貴皇子・佐味宿那麻呂・羽田斉・伊余部馬養・大伴手拍・巨勢多益須らと共に『善言』という書物を編集するための官職である撰善言司に任じられる。この書は南朝宋の范泰の『古今善言』を模範にした説話集であったらしく、皇族や貴族の修養に役立てようとしたものであった。しかし、この書は刊行されず、のちの『日本書紀』の資料にされたらしい(青木和夫)。 文武天皇4年(700年)に大宝律令撰定の功で、刑部親王以下調老人を含む19人が禄を与えられた(このときの冠位は直広肆(従五位下相当))。編者の中で最後に名前があがっており、追加補任されたと解釈することもできるが、翌大宝元年(701年)8月に正五位上を追贈されていることから、これ以前に没したとも考えられる。 大宝3年(703年)律令選定の功績により、下毛野古麻呂・伊吉博徳の2人と伊余部馬養の子息とともに老人の子息にも賜田10町・封戸100戸が与えられ、賜田は子の代まで相続を許されたが、封戸は本人限りとされた。さらに、孝謙朝の天平宝字元年(757年)になってから、上記3人とともに子一代に功田10町を下功として伝えらることを許されている[4]。 人物『懐風藻』に「三月三日詔に応ず」という題の五言詩の漢詩作品1首が採録されている[5]。 官歴『六国史』による。
脚注参考文献 |