見失った羊のたとえ(みうしなったひつじのたとえ、英語: Parable of the Lost Sheep)は新約聖書ルカの福音書(15:1-7)とマタイの福音書(18:12-14)に登場する、イエス・キリストが語った神のあわれみ深さに関するたとえである。
ルカ福音書の第15章の「銀貨を無くした女のたとえ」、「放蕩息子のたとえ話」を含む三つのたとえは「神の憐れみの三つのたとえ」とも言われている[1]。
内容
聖書本文
さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
— ルカの福音書 15:1 - 7、口語訳聖書
概要
百匹の羊をかっている羊飼いはキリストを表し、見失った一匹の羊は罪人をたとえている。九十九匹を野原に残すという危険を冒してでも良い羊飼いは見失った一匹の羊を探し出そうとする。イエスは羊飼いにとっての見失った羊、すなわち神にとっての罪人たちはそれ程大切なのだと説いている。
このたとえは、イエスが徴税人や罪人を招き食事をしていることをファリサイ派の人たちが咎めたことに対する、イエスの反論から始まっている。マタイの福音書 (18:10)ではイエスは弟子たちに向かって、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と厳しく諭している。[2]
脚注
- ^ 場崎 洋 『イエスのたとえ話』149頁。
- ^ 場崎 洋 『イエスのたとえ話』 143-149頁。
参考文献
- 新共同訳新約聖書 日本聖書協会
- 口語訳新約聖書 日本聖書協会
- 『新約聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注、中央出版社、改訂初版1984年。
- 場崎 洋 『イエスのたとえ話』 聖母の騎士社、2011年3月25日初版発行。
関連項目
外部リンク